ハイエク『隷属への道』(18) 2つの保障
ここで2つの異なった種類の「保障」をはっきりと区別しておくことは必要だろう。1つは「限定的保障」で、社会の全員のために実現することが可能であり、決して特権ではなく、人々が実現を欲して当然なものである。もう1つは「絶対的保障」で、自由社会では全員に実現することが不可能であり、特権として与えられることも許されないもの――ただし完全な独立性を持つことが至上の重要性を持つ、裁判官の場合のような、数少ない例外はあるが――である。
第1番目の保障は、深刻な物質的窮乏に対する保障であり、社会の全員がいかなる場合もある最低眼度の生計を保ちうるという保証である。第2の保障は、ある特定の生活水準の安定に対する保障であり、言い換えれば、ある個人ないし集団が享受している地位が様々な地位の序列の中で占めている位置を変えないという保証である。もっと手短かに言うなら、第1のものは「最低所得の保障」、第2のものは、ある人が自分にふさわしいと思う「特定所得の保障」である。
これから見ることになるが、この区別は、市場システムの外部から、そして市場システムを補完するものとして、社会の全員に供与されうる保障と、市場の統制ないし廃止を通してのみ、ある人々だけに供与されうる保障との区別に、おおむね合致するものである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 154)
第1のものは自由主義体制下での例えば生活保護といった社会保障がこれに当たるだろう。第2のものは社会主義、共産主義体制の「必要に応じた分配」と言われたものがこれに該当するのだろう。日本は自由主義国であるから前者となるが、気になるのが日本国憲法第25条の規定である。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
が、日本国憲法の元となったGHQ案には<健康で文化的な最低限度の生活>なる文言はなかった。この文言を入れるよう進言したのが文部大臣も務めた森戸辰男であった。森戸は言う。
《資本主義がその純粹の原則から離れてきますと、生存權と勞働權は資本主義の缺陷(けっかん)を埋めながら、社會主義に至る萠芽をそこに宿すことのできるものと私どもは考えておるのであります。
かような立場に立ちまして、新しい憲法の制定に當(あた)りまして、この資本主義的な性格を根本に崩すということができない事態の下において、如何にして、またどの程度まで社會主義的な要素をこの憲法に含ませるかという見地に立ちますれぼ、生存權と勞働權とをこの憲法の中に含ませて行くということが必要である、ということになるのであります。患法改正における社會黨(とう)の努力は、主としてこの點(てん)に向けられておつたのであります。
そこでまず生存權の問題について申せば、このたびの改正憲法の原文には生存權あるいは生活權を保障するものはなかつたのであります。これをもつて私どもはこの度の新患法の大きな缺陷であると考えました。フランスの入權宣言あるいはアメリカの獨立宣言その他の諸州の憲法を中心とした憲法は、財產權の神聖は大書していますが、これに反して各人の生活の保障ということは全く個人の責任であるといたして、個人に任せ、國家は國民の生活のために生活を保障する義務を負うべきものとはなつていなかつたのであります》(『新憲法講話』(憲法普及會編)第8講 新憲法と社會主義――私有財産及び労働權、p. 303)
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