ハイエク『隷属への道』(2) 自由主義

自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけでもない。ここで最も基本となる原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということであり、この原理は、実際の適用に際してはほとんど無限のやり方がある。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 14)

 ハイエクは紛(まが)うかたなき自由主義者である。特筆すべきは、<自生的な力>を最大限に活用すべきだとしている点である。これを見れば、ハイエクの思想が保守のものと重なり合う部分が少なくないことが分かるだろう。

自由主義の政策の進歩は、社会が持っている力とは何か、そしてそれらが望ましい仕方で発揮されるにはどのような条件が必要かを、どれだけ深く理解できるかにかかっていた。真の自由主義者の政策が目指すところは、社会の諸力がうまく動いていくのを助け、必要とあらばそれを補完していくことであり、そのために第一にしなければならないことは、その力自体を理解することであった。言ってみれば、真の自由主義者の社会に対する態度は、園芸師が植物に向かう時のそれに似ている。植物の成長に最高の条件を作るために、園芸師は植物の体質やその機能を、できるかぎり知っておかなければならない。それと同じことが自由主義者にも要求されるのである。(同、pp. 15-16

 自由主義者は、社会が円滑に回るようお膳立てはするが、社会自体を自分の思い通りに動かそうなどと大それたことは考えない。

19世紀末にかけて、自由主義の基本的な教義に対する人々の信頼は、どんどんと棄て去られていくという事態になった。自由にまって達成されたものは、確実で消え去ることのない所有物のように見なされ、いったん獲得してしまえばもう放っておいてもいいものだと思われるようになった。人々の目は新しい要求にばかり向けられ、自由主義という古臭い原理に固執することは、それらの新しい要求を速やかに達成する上で障害になるとしか思えなくなった。

自由社会の一般的な枠組みは、かつては進歩を可能にしたとはいえ、そのレールに従って進んでももはや一層の発展は望むことができず、さらなる発展は社会を完全に作り替えることによってだけ可能である、という考えは日に日に勢いを増していった。問題は、すでに存在する「機械」に何かを付け加えたりそれを改良していくということではなく、それをスクラップにし、新しいものと取り替えることだ、と人々が思い込む状況になっていった。

新しい世代の希望は、何かまったく新しいものを求めるばかりになってしまい、これまでの偉大な繁栄をもたらした社会がどのような仕組から成り立っていたのかに関しての興味も理解も、急速に失われてしまった。人々は、自由の体制がどんなふうに機能しているかについての理解を失っていき、同時に、その体制が基礎となって何が生み出されてきたかについても、ほとんど考えようとしなくなっていった。(同、pp. 17-18

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