ハイエク『隷属への道』(3) 「機会の平等」と「結果の平等」
われわれが実際着手し始めていることは、期待をはるかに上回る偉大な成果を生み出してきたそれらの「自生的」諸力に頼ることをやめ、非個人的で匿名なシステムである「市場」を廃止し、これに代えて、熟慮の上で定めた目標へと向けて、社会に存在する様々な諸力を、集産主義的で「意識的な」やり方で管理・統制していくシステムを創り出すことである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 19)
一般に<熟慮>は良い事なのだけれど、社会を自分たちが考えた通りに設計し差配出来るなどと大それたことを考えるのだとすれば「短慮」と言うべきだろう。
フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、デモクラシーと社会主義の違いを次のように説明する。
(仏語)La
démocratie étend la sphère de l’indépendance individuelle, le socialisme la
resserre. La démocratie donne toute sa valeur possible à chaque homme, le
socialisme fait de chaque homme un agent, un instrument, un chiffre. La
démocratie et le socialisme ne se tiennent que par un mot, l’égalité ; mais
remarquez la différence : la démocratie veut l’égalité dans la liberté, et le
socialisme veut l’égalité dans la gêne et dans la servitude. ―― Oeuvres complètes d'Alexis de Tocqueville, vol. IX: Étude
économiques, politiques et littéraires, p. 546
(英語)Democracy
extends the sphere of individual freedom, socialism restricts it. Democracy
attaches all possible value to each man; socialism makes each man a mere agent,
a mere number. Democracy and socialism have nothing in common but one word:
equality. But notice the difference: while democracy seeks equality in liberty,
socialism seeks equality in restraint and servitude.
(デモクラシーは個人の自由の領域を拡大し、社会主義は制限する。デモクラシーは一人ひとりの人間にあらんかぎりすべての価値を与えるが、社会主義は一人ひとりの人間を単なる代理人、単なる数にする。デモクラシーと社会主義には、「平等」の一語以外に共通点はない。しかし、その違いに注目してほしい。デモクラシーが自由の中に平等を求めるのに対し、社会主義は拘束と隷属の中に平等を求めるのである)
「平等」には2種類ある。1つは「機会の平等」、もう1つは「結果の平等」である。前者はトクヴィル言うところの<デモクラシー>に、後者は<社会主義>に対応するものであろう。「機会の平等」とは、「法の支配」と「市場経済」に任せ、自由に活動を行うということである。一方、「結果の平等」とは、格差が生じないように自由を制限しようとするものである。
かつて政治的自由を主張した偉大な先人たちにとっては、自由という言葉は圧政からの自由、つまり他者のどんな悪意的な圧力からもあらゆる個人が自由でなければならないことを意味していたのであり、従属を強いられている権力者たちの命令に従うことしか許されない束縛から、すべての個人を解き放つことを意味していた。
ところが、社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような、とても逃れえないと思われてきたすべての障害から人々を自由にし、すべての人間の選択の範囲―もちろんその範囲は人によってはきわめて広く、人によっては狭い―をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった。
つまり、人々が真に自由になるためには、それに先だって、「物的欠乏という圧制」が転覆されなければならず、「経済システムがもたらす制約」が大幅に撤去されなければならない、とこの「新しい自由」は主張した。(ハイエク、同、pp. 26-27)
自由主義者からすれば<抑圧>としか思われないことを社会主義者は<真の自由>を得るために必要なことと詭弁(きべん)を弄(ろう)したということである。
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