ハイエク『隷属への道』(1) 個人主義

今回は、自由主義経済学の泰斗(たいと)フリードリッヒ・フォン・ハイエクの『隷属への道』を取り上げる。


本書が発表されたのが第2次大戦真っ只中の1944年。ハイエクは、社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムは同根の集産主義であると批判した。ハイエクが拠って立つのが「個人主義」と「自由主義」である。ハイエクの言う「個人主義」および「自由主義」がいかなるものか、そして「全体主義」がいかなる問題を孕(はら)んでいるのかを見ていきたいと思う。

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個人主義とは、「人間としての個人」への尊敬を意味しており、それは、一人一人の考え方や嗜好(しこう)を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である。それはまた、人はそれぞれに与えられた天性や性向を発展させることが望ましいとする信念でもある。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 10

 <個人主義>という言葉は多義的であるので少し揉み解(ほぐ)しておこう。

《今日では、人権の根拠は「個人の尊厳」という思想に求められている。それは、社会あるいは国家という人間集団を構成する原理として、個人に価値の根源を置き、集団(全体)を個人(部分)の福祉を実現するための手段とみる個人主義の思想である。個人主義に対立するのは、価値の根源を集団に置き、個人は集団の一部として、集団に貢献する限りにおいてしか価値をもたないとする全体主義であるが、「個人の尊厳」を表明した日本国憲法(24条参照)は、全体主義を否定し個人主義の立場に立つことを宣言したのである》(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣)第3版、p. 72


 個人主義の対義語は全体主義ではなく集団主義と言うべきであろう。全体主義は集団主義の過剰であり鬼子である。したがって、個人主義の対義語を全体主義とし、これを否定して個人主義を選択するというのは結論先にありきの議論でしかない。あるべき議論は、個人主義か集団主義かの選択ということになるが、これも二者択一と考えるべきではない。軸足を個人の側に置くのか集団の側に置くのかという比重の問題とすべきである。個人の側に重心があっても集団が否定されるべくもない。逆に、集団の側に重心があっても個人が否定されやしない。重心の置き方は国や文化それぞれであり一様に語れない。日本国憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)とし、個人を前面に出すのだけれども、非常に皮相な人間観の表れであろうと思われる。

 <個人主義>には大きくは「英国型個人主義」と「(欧州)大陸型個人主義」の2つがあると考えられるが、日本国憲法は後者のものであろうと思われる。ハイエクは個人主義を「真の個人主義」と「偽の個人主義」とに分け、次のように論じている。

《真の個人主義は家族の価値と小さい共同体や集団のあらゆる共同の努力を肯定すること、其の個人主義は地方自治と自発的結合に信を置くこと、実際、真の個人主義の立場は、国家の強力的行為に通常頼られていることの多くが、自発的協力によってヨリ上手になされうるという主張に大いに基づいていることは、これ以上さらに強調する必要はない。それとはこの上もない対照をなすのが偽の個人主義であって、こちらは、前記のような比較的小さい集団をすべて、国家が課す強制的規則の他には繋(つなが)りのないアトムに解体することを欲し、それらの小集団による強制的権力の不当奪取から個人を保護するために、国家を主として使うかわりに、すべての社会的紐帯(ちゅうたい)を指令によるものにしようと努める》(ハイエク「真の個人主義と偽の個人主義」:『市場・知識・自由』(ミネルヴァ書房)田中真晴訳、p. 28



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