ハイエク『隷属への道』(11) 全体主義への危惧

もちろん、共産主義、ファシズム、そしてその他の様々な種類の集産主義は、社会の活動を振り向ける目標がどんな性質のものであるかについては、それぞれ意見を異にしている。だが、これらすべては、社会全体とその全資源を単一の目的へ向けて組織することを欲し、個人それぞれの目的が至高とされる自主独立的分野の存在を否定することにおいて、等しく自由主義や個人主義と一線を画している。簡単に言えば、すべての集産主義は、最近生まれた「全体主義」という言葉の真の意味において、全体主義的なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 70

 個人の自由を抑え平等という檻に閉じ込める共産主義、ファシズムなどの終着点は、同じ<全体主義>だということである。

単一の計画によって全経済活動を統制しょうとする試みは、ある一つの道徳的ルールがあって初めて解決できるような、数限りない問題を発生させる。それらの問題に、既存の倫理は答えるすべを知らず、何がなされるべきかについての一致した見解もまったく存在していない。(同、pp. 72-73

 計画主義は、1つの計画に基づいて政治経済を独裁的に行おうとするものでしかなく、社会の倫理や道徳は眼中にない。自由主義では、社会生活を円滑に行うための相互了解としての倫理や道徳の存在が重要となるが、計画主義では「法の支配」に基づく自由は認められないのであるから、あるのは計画者の胸三寸と強制だけということになる。

 誰も、すべてを包括する価値尺度は持つことができない、つまり、入手可能な資源を競って求めようとしている、人々の無限なまでに多様なニーズを、完全に把握し、それぞれに価値づけを与えることは、どんな人間にもできない(同、p. 73

人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分にすぎない…価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえず、しばしば衝突しあうものとなる…個人主義者は、ある範囲内で個人は、他者のではなく自分自身の価値観や好みに従うことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図の対象ともされるべきでない、と結論する…各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者である…各個人はできるかぎり自身の考えによって自身の行動を左右していくべきだ(同、p. 74

 が、<全体主義>では、個人は等しく、多様性による差異は認められないから、このようなことを指摘されても全体主義者は痛くも痒(かゆ)くもないのである。

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