ハイエク『隷属への道』(7) 競争か統制か

これまで、競争体制についての研究は、もっぱらそのマイナス点をめぐるものに終始していて、どのようにすればそれがより十分な働きをするのかという積極的な研究はあまりなされてこなかった。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 44)

 現状に対する批判があってはじめて保守は口を開く。つまり、保守の発言は遅れてやってくるということである。だから<競争>に対する批判が先んずるのは、ある意味、仕方がないことである。

 保守論客・福田恆存(ふくだ・つねあり)は言う。

《先に自己を意識し「敵」を發見した方が、自分と對象との関係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社會から閉めだされた自分を辯解(べんかい)し、眞理は自分の側にあることを證明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の發生を見るのである。保守渡は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがって、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる。それは本來、消極的、反動的であるべきものであって、積極的にその先廻りをすべきではない》(「私の保守主義觀」:『福田恆存全集』(文藝春秋)第5巻、p. 437


競争がその機能を十分に発揮していくためには、通貨とか市場とか情報伝達網とかといった、特定の制度――そのうちのいくつかは、民間企業によっては決して十分に提供されえないものである――を適切に組織化していく必要があるだけでなく、とりわけ、適切な法律制度、すなわち競争を維持し、できるだけ効果的に働かせるように考えられた法律制度が、樹立されていなければならない。(ハイエク、同)

 <競争>を通して公正な社会を築くためには法の整備が欠かせない。私的独占の禁止や公正取引の確保のための「独占禁止法」といったものも「機会の平等」には必要だ。

われわれがそれへ向かって急速に歩んでいるのは、実はいまだに大半の人々が、「原子論的」な競争体制と中央集権的統制の間に「中庸の道」があると信じていることが大きな原因となっているのである。確かに、分別ある人々にとって、われわれの目ざしているところは、自由競争による極端な分権化でも、単一計画による完全な中央集権化でもなく、それらをうまくミックスさせたやり方でなければならないという考えほど、一見もっともらしく、魅力的な考え方はない。だが、少し常識を働かせれば、それが誤りだということは明らかになるはずだ。(同)

 「中庸の道」がないわけではない、が、それでは<競争>と<統制>の良さを相殺(そうさい)してしまうということである。

競争はある程度の規制とは混合して存在しうるけれども、それを計画と好きなだけ結びつけた時でも、変わらず生産への有効なガイドとして働くなどということはありえない。また、計画は、薬と同様、わずかの服用でもそれなりの効き目があるというものでもない。競争も中央統制も、中途半端に用いた時には、無意味で効き目のない道具なのである。1つの問題を解決しようとすれば、どちらかを選ばざるをえない性質の原理であり、まぜこぜに使うと、どちらも機能しなくなり、ずっと一方だけに頼った場合よりも悪い結果しか生まれない。(同、pp. 48-49

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