ハイエク『隷属への道』(6) 自由競争

競争以外の方法がなぜ劣っていると言えるのか。それは単に、競争はほとんどの状況で、われわれが知っている最も効率的な方法…競争こそ、政治権力の恣意(しい)的な介入や強制なしに諸個人の活動の相互調整が可能になる唯一の方法だ…競争擁護論の主要点は、競争こそ、意図的な社会統制を必要としない、ということであり、また競争こそが諸個人に職業選択の機会を与えるということ、つまり、特定の職業の将来性が、それを選ぶことによって起こる不利益や危険を補ってあまりあるかどうか決断できる機会を与える、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 42)

 国家が個人の職業を決めるのではなく、個人が自らの判断で職業を決め、それに就くということである。憲法に言うところの「職業選択の自由」である。

日本国憲法 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 ここで確認しておくべきは、「職業選択の自由」とは、個人の職業を国家が規制することを禁じるということであって、個人が自分の好きな職業に自由に就けることを保証するわけではないということである。

《職業選択の自由とは,自己の従事する職業を決定し遂行(すいこう)するにつき,国家から強制を受けないことをいう》(阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂)全訂第3版、p. 209


 詳しくは稿を改めたいと思うが、「職業選択の自由」は、職業選択に関しての自己責任を伴うものであるから、自由がかえって重荷となりかねない。(参照:楽天ブログ:職業選択の自由について(1)欧州産の思想:
https://plaza.rakuten.co.jp/ikeuchild/diary/202112040000/

《いったい人は、「自由」という思想にほんとうに耐えられるほどに靭(つよ)い存在なのであろうか。

 人間は「自由」でない方がある点で安定しているし、気楽でもある。「自由」であることは、厳密に考えると、悲劇的である。自分で自分を律して、つまり自分で自分の「自由」の負担をきちんと処理して、どんな場合にも倒れないで立派に立っていられるようにせよということは、ひょっとすると、人間に神になれと要求していることにも近い》(西尾幹二『自由の悲劇』(講談社現代新書)、pp. 234-235

市場において、それぞれの経済主体は、応じる相手さえいればいかなる値段でも、自由に売ったり買ったりできなければならず、また、製作や売買が可能なものなら何でも製作し、売買する自由が誰にでも与えられなければならない…様々な分野での取引が、すべての者が同じ条件で参入できるように開放されているということ、そして、個人やグループが、公然たる力を用いようが隠れた力を用いようが、そのような参入を制限することが、法によって許されてはならない(ハイエク、同、pp. 42-43

特定の財の価格や量をコントロールしようとする介入的な試みは…競争が持っている個人活動間の調整能力を奪い去ってしまう…価格の変化は、取引に関連する環境条件の変化のすべてを正確に反映させることができなくなってしまい、各個人の経済活動が依拠できるようなガイドをもはや提供できなくなってしまう(同、p. 43

 つまり、競争原理が働かなくなってしまうから、政府は原則的に市場介入を控えるべきだということである。

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