ハイエク『隷属への道』(10) 多様性と選択の自由

目先の利益を犠牲にすることによって、われわれは、将来の進歩を促進する重要な刺激を保持していくのである。短期的に見れば、多様性と選択の自由のために払う代償は、時に高くつくかもしれないが、長期的に見れば、物質的な進歩でさえも、この多様性に支えられている。というのも、多様なあり方が可能な財やサービスの供給形態のうち、どれがいっそうよいものを生み出すかを、われわれは決して予測することができないからである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 63)

 <多様性>という言葉には少し注意が必要である。昨今<多様性>という言葉をよく耳にし目にするが、そのほとんどが政治的意味合いが強いように思われる。<多様性>という言葉が日本文化を破壊するための鍵言葉のようになってしまっているということである。ハイエクの言う<多様性>とは、将来何が当たるかわからないから選択肢を広げておこうということである。が、<多様性>を確保するにはそれ相応の費用が必要である。これを無駄と見るのか必要と見るのかが判断の分かれ目となる。無駄だとして費用をケチれば将来の芽を摘んでしまうことになりかねない。

もちろん、自由の維持のために、現在の物質的な安楽をさらに増加させてくれる何かを犠牲にすることが、どんな場合でも必ずむくわれるとは限らない。だが、そういう予測できない発展が、自由に実現されていく余地を残しておくべきだ、ということこそ、自由擁護論の眼目なのである。われわれには予測は不可能であるからこそ、現在の知識から判断して、強制的手段が利益しかもたらさないと思えても、また、その特定の分野ではその時点でどんな害も及ぼさないとしても、この原則は守られるべきなのである。(同)

 種を蒔けば必ず実を結ぶとは限らない。特に、基礎的研究分野においてはほとんどが日の目を見ないだろうことも経験上分かっている。が、無駄だと思われるものの中から優れた成果が突如として現れてきたこともまた事実なのである。我々は過去の人達が種を蒔いてくれたおかげでその実を有難くも頂戴し暮らしている。そのことに感謝するのだとすれば、我々もまた子孫のために種を蒔くことを怠ってはならないだろう。それは今を生きる者たちの義務でもある。

それはまた、別の面から見れば、限られた人が現在という限られた時点で持っている知識が、未来の発展を左右してしまうという危険を回避しうる道でもある。(同)

 種を特定の誰かが作為的に予(あらかじ)め選別するのではなく、どの種が実を結ぶのかは自由競争に任せようということである。

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