ハイエク『隷属への道』(5) 競争
真に問題なのは…目的を実現するためには、各個人の知識やイニシャチブがいかんなく発揮され、それぞれがもっとも効果的な計画が立てられるような条件を作り出すということだけに、政府権力は自らを限定すべきなのか、それとも、われわれの諸資源を合理的に活用するためには、意識的に設計された「青写真」に基づいて、人々のあらゆる活動が中央集権的に統制・組織されることが必要なのか、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 40-41)
前者が「小さな政府」、後者が「大きな政府」ということになる。「小さな政府」は、慣習や慣例を重んじ、出来る限り政府による規制を少なくしようという立場に立つ。一方、「大きな政府」は、計画目標に向けて個人の活動を政府が規制し統制する。が、計画目標はある特定の人達には喜ばしいものなのかもしれないが、他の多くの人々には必ずしも望むべきものではなかろう。否、ソ連邦の失敗を持ち出すまでもなく、そのような計画はそもそも実現可能なのかという問題もある。
自由主義者の主張は、諸個人の活動を調和的に働かせる手段として、競争というものが持つ諸力を最大限に活用すべきだということであって、既存のものをただそのまま放っておけばいい、ということではない。自由主義の主張は、どんな分野であれ、有効な競争が作り出されることが可能であるなら、それはどんなやり方にもまして、諸個人の活動をうまく発展させていくのだという、確信に基づいている。(同、p. 41)
<競争>を通して個々の競争者の能力が引き出される、このことを大切にすべきだということである。例えば、日本人のパン作りやラーメン作りのこだわり、創意工夫、飽くなき探究心は感動ものである。そこには日本人の美意識というものが反映されている。おいしいだけではない。見た目も大事だし、健康への配慮も欠かせない。ただ<競争>と聞くと、強者が力に物を言わせてねじ伏せるという心象を抱き勝ちであるが、<美>を巡る競い合いはもっと高次元の競争なのである。
次なる問題は、<競争>の前提条件である。
この競争が有利に働くためには、十分に考え抜かれた法的な枠組みを必要とすること、そしてこの点に鑑みれば、現在の、あるいは過去の法的ルールは、重大な欠陥を持っているということを、自由主義者は否定しないし、それどころかむしろ進んでそう主張するものである。(同、pp. 41-42)
公正な<競争>には同一の土壌が必要である。それが「機会の平等」というものである。何よりも<競争>の前提となる法や道徳が同じでなければならない。それが「法の支配」ということである。
また、有効な競争が働くための条件を作ることが不可能な分野では、経済活動を導くために、競争以外のなんらかの方法に依存しなければならないということも、まったく否定していない。だが、経済的自由主義は、諸個人の活動を調和させる手段として、競争に代えてより劣った方法が採られることには、断固として反対する。(同、p. 42)
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