ハイエク『隷属への道』(12) 自由は自由社会の基盤

アクトン卿は言う。

「自由はより高い政治目的のための手段ではない。自由はそれ自体、至高の政治目的である。自由が必要とされるのは、よい行政を実現するためではなく、市民社会、そして個人的生活が、至高の目標を追求していくことを保証するためである」(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 87)

 <自由>は、自由社会における「基盤」であり、<自由>がなければ自由社会は成り立たない。自由社会とは個人の自由な選好の総体として成り立つものであるから、<自由>がなければ個人が抑圧され社会の活力が失われてしまうだろう。だから自由社会を維持するためには、自由を確保し続けることが至上命令となるのである。

民主主義は、本質的に手段であり、国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない。民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。そしてまた、これまでの歴史において、いくつかの民主主義体制のもとでよりも、独裁的な支配のもとでのほうが、しばしば文化的・精神的自由が実現されてきたということを忘れてはならない。また、きわめて同質的な、そして空論ばかり振り回す多数派の支配のもとでは、民主主義政府は最悪の独裁体制と同様に圧政的なものとなることは、少なくとも可能性としては考えられる。(同、p. 88

 デモクラシーは<手段>であり<功利的制度>でしかないということはしっかり確認しておくべきだ。デモクラシーはその主体たる民衆の良し悪しによって良いものにも悪いものにも成り得る。そして民衆の良し悪しは、民衆を指導する政治家、知識人、マスコミの良し悪しによる。

民主主義的手続きによって与えられているかぎり、権力は恣意(しい)的なものにはなりえない、という信念は、どんな正当な根拠も持っていない。この主張が述べている対比は、まったくの誤りである。権力が恣意的にならないようにさせるのは、それがどこから来ているかという源泉ではなく、権力に対する制限なのだ。(同、p. 89

 ナチス・ドイツは、デモクラシーが蹂躙(じゅうりん)されたから生まれたのではなく、デモクラシーに則った手続きを経て生まれたのである。このことが分からなければデモクラシーの危険性を理解することが出来ないであろう。

民主主義的な統制は、権力が恣意的になるのを防ぐかもしれない。だが、民主主義がただ存在しているだけでは、その防止が可能になるわけではない。民主主義が、確立したルールでは統御できないような、権力の使用を必然的に含む活動を行なおうと決定するならば、まちがいなく民主主義そのものが恣意的な権力となるのである。(同)

 民衆が権力と適切な距離を保っていれば問題ない。が、かつてのドイツのように民衆が権力と一体化してしまっては、政治の暴走を止められないということになってしまうのである。

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