「進歩主義」の虚妄(5) 全6回
残念ながら私には<人間の本質が二律背反にある>ということを十分に咀嚼(そしゃく)し解説することが出来ない。よって自分なりの解説を試みたいと思う。例えば、自由と平等は二律背反(antinomy)である。自由を重んじれば格差を生じる。格差を無くそうとすれば自由を制限しなければならない。ここで問題となるのは、どのような価値観の「物差し」を用いるのかということである。自由主義では、自由が善で平等が悪となる。逆に、平等主義では、平等が善で自由が悪となる。が、この2つの物差しの優劣を決めるような「物差し」はない。であれば実験してみるより他はない。ということで20世紀、マルクス主義の壮大なる実験がソ連邦をはじめとして行われ、散々な結果となったのであった。
自由も平等も「物差し」次第で善にもなれば悪にもなる。自らの考えだけが善であるなどと考えるのは独り善がりである。世の中には様々な「物差し」がある。したがって、何が善であるのかも様々である。勿論、これらの善にも優劣は存在するに違いない。が、その判断は主観を免れた「歴史」に委ねるしかない。
《彼等は一人の例外もなく不寬容である。自分だけが人間の幸福な在り方を知つてをり、自分だけが日本の、世界の未來を見とほしてをり、萬人が自分についてくるべきだと確信してゐる。そこには一滴のユーモア(諧謔(かいぎゃく))もない。ユーモアとは相手の、そして同時に自分の中のどうしやうもないユーモア(氣質)を眺める餘裕(よゆう)のことだ。感情も知性と同じ資格と權利とを有することを、私たちの生全體(ぜんたい)をもって容認することだ。過去も未來と同樣の生存權を有し、未來も過去と同樣に無であることを、私たちの現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寬容であり、文化感覺といふものではないか》(『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、p. 177)
「多様性」という観点からLGBT(性的少数者)を認めよと主張する人達は、LGBTを認めない「多様性」は否定する。他者には自分に対する「寛容」を求め、自らの説に異を唱える者には「不寛容」な態度を示す。自らは「自由」の恩恵に与(あずか)って余りあるが、他者には自ら考える正義への「画一」を迫るのである。
《進歩的文化人らの頭の構造を解剖すると、革命・ユートピア幻想に裏打ちされた、完全な二重思考がある。資本主義経済・自由社会を論評するときは、懐疑の刃を振りまわして、杞憂(きゆう)としか思えないことも絶望的に描く。日米安保によって日本が戦争に巻き込まれるとか、資本の自由化によって日本はアメリカ資本の支配下に置かれるといった妄説を専ら鼓吹(こすい)してきた。一方、共産主義の世界を論評するときは、それらの国の独裁者も顔負けするほどの薔薇色一色に染めあげた。西側世界を描くときは黒か灰色のクレヨン、東側を描くときは薔薇色のクレヨンのみ使うという仕掛けである》(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫)、p. 535)【続】
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