ヘミングウェイ『老人と海』について(5) 全6回 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 10月 26, 2021 『老人と海』には「ライオン」が繰り返し登場する。 (1) "When I was your age I was before the mast on a square rigged ship that ran to Africa and I have seen lions on the beaches in the evening." (お前の年齢の頃、アフリカに向かう横帆船(おうはんせん)のマストの前にいて、夕方になると浜辺にライオンがいるのを見たことがある」) (2) He no longer dreamed of storms, nor of women, nor of great occurrences, nor of great fish, nor fights, nor contests of strength, nor of his wife. He only dreamed of places now and of the lions on the beach. They played like young cats in the dusk and he loved them as he loved the boy. He never dreamed about the boy. (老人はもはや嵐の夢も、女の夢も、大事件の夢も、大魚の夢も、戦いの夢も、力比べの夢も、妻の夢も見なくなった。老人は今では場所の夢と浜辺のライオンの夢しか見ない。ライオンたちは夕暮れに子猫のように遊び、老人は少年を愛するのと同様にライオンたちを愛していた。彼は少年の夢を見ることは決してなかった) (3) I wish he'd sleep and I could sleep and dream about the lions, he thought. Why are the lions the main thing that is left? Don't think, old man, he said to himself. Rest gently now against the wood and think of nothing. He is working. Work as little as you can. (彼が眠ってくれれば、私も眠ってライオンの夢を見られるのに、と老人は思った。どうしてライオンが主役なんだ?考えるな、爺さん、と老人は自分に言い聞かせた。さあ木にそっと寄り添って、何も考えるな。奴は動いている。出来るだけ動くな) (4) He did not dream of the lions but instead of a vast school of porpoises that stretched for eight or ten miles and it was in the time of their mating and they would leap high into the air and return into the same hole they had made in the water when they leaped. Then he dreamed that he was in the village on his bed and there was a norther and he was very cold and his right arm was asleep because his head had rested on it instead of a pillow. After that he began to dream of the long yellow beach and he saw the first of the lions come down onto it in the early dark and then the other lions came and he rested his chin on the wood of the bows where the ship lay anchored with the evening off-shore breeze and he waited to see if there would be more lions and he was happy. (ライオンの夢ではなく、8キロも10キロも続くネズミの大群の夢を見た。ちょうど交尾の時期で、ネズミたちは空高く飛び上がり、飛び上がったときに水に作った同じ穴に戻ってくる。 その後、村のベッドで寝ていると、北風が吹いていてとても寒く、枕の代わりに頭を置いていたので右腕が寝ている夢を見た。 その後、黄色い長い砂浜の夢を見るようになり、暗いうちに最初のライオンが砂浜に降りてくるのを見て、それから他のライオンがやってきて、夕刻の沖合の風を受けて船が停泊している船首の木にあごを乗せて、もっとライオンが来るかどうかを待って、幸せな気分になった) 5) Up the road, in his shack, the old man was sleeping again. He was still sleeping on his face and the boy was sitting by him watching him. The old man was dreaming about the lions. (道を上っていった先の小屋で、老人はまた眠っていた。老人はうつ伏せで寝ていて、少年がそばに座って老人を見ていた。老人はライオンの夢を見ていた) これらの「ライオン」が何を象徴しているのかは意見が分かれるところであろう。が、T・S・エリオットが「ダンテ」論で説いているように、老人が夢の中でみた「ライオン」はそのまま素直にライオンとして受け止めてもよいのではないかと思われる(参照:杉本喬「作品研究 老人と海」:志賀勝編『ヘミングウェイ研究』現代英米研究叢書、p. 212)。【続】 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
アダム・スミス「公平な観察者」について(18)impartial spectator 12月 17, 2024 《むろん、ここで「見る」といったのは、まさに行為の現場に現に第三者がいなければならないなどということではない。そうではなく、第三者がそこにいようがいまいが、行為の適宜性は第三者の判断によってのみ意味をもつ概念だということである。行為の「適宜性」とは、こうして当事者ではないある第三者の登場によってはじめて判定されることとなる。だが、それではいったいこの場合、第三者とは何者なのだろうか》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、 p. 64 ) ここで言う〈第三者〉とは、当事者と利害関係を有(も)たない「客観的な存在」ということである。 《もちろん、文字通りの意味でいえば、第三者とは当事者以外のすべての人なのだから、可能性としていえば、当事者以外のあらゆる者がこの第三者でありうる。私が誰かの食べ物を奪ったとすれば、私と相手以外のすべての者が第三者でありうる。だから極端にいえば、すべての第三者の「同感」の程度をことごとく調査する必要があるともいえよう。だが、むろんこれは無意味なことだ。スミスが述べているのはむろんそんなことではないのであって、この第三者とはただ「利害関心をもたない(インディファレント)」観察者ということなのである。「中立的な観察者(インパーシャル・スペクテイター)」がそれである》(同) 私は、 impartial spectator を多くの先行研究に倣って、「公平な観察者」と訳しているが訳語自体に大差はない。 impartial とは「偏っていない」ということであり、それを「公平」としようが「中立」としようがどちらでも構わない。 《私とも相手とも特別の関係をもたない、もしくはもってはいても、あたかも「中立」であるかのようにふるまう者がこの「中立的な観察者」である。そして適宜性をもった行為とは、この「中立的な観察者」が是認できるような行為なのである。つまり、道徳的に適切な行為とは、中立的な観察者が同感の原理に基づいて是認できるような情念の適宜性、もしくは情念と行為の適切な関係にほかならない。スミスは、この観察者は、情念のレベルでのある種の「中庸」をもった観察者にほかならず、また、行為者には、この種の情念の抑制つまり自己規制が要求されると考えるのである》(同、 pp. 64f ) スミスの言う impartial spect... Read more »
アダム・スミス「公平な観察者」について(32)fellow-feeling 12月 31, 2024 《国家という社会集団について、われわれは、スミスの「同胞意識」という言葉を一般化して、たとえば「一般化された同胞感情」をもっている、といってよいだろう。確かにスミスは、彼の「同感」の範囲をどこに限定するかについて明瞭に述べているわけではない。しかし、一定の関心を共有し、おおむね共有化された文化や表現様式、価値観を潜在的にもった集団、つまり国家を、その具体的世界として前提にしていたことは明らかだと思われる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 88) fellow を「仲間」と日本語に訳すか「同胞」と訳すかで意味合いも異なってくるだろうから注意が必要だ。それを前提として、「同情」「思いやり」「共感」( fellow-feeling )は、「仲間意識」( fellow-feeling )から生じるものであるが、スミスの言う fellow-feeling の「仲間」がどの範囲までなのかは定かではない。 《それは、あまりに具体的で人格依存的な小共同体でもなく、またあまりに抽象的な人類社会といったような大共同体でもない。それは、具体的に対面しているわけではないし、具体的に知っているわけではないが、基本的な価値観や判断の基準が共有されているという暗黙の信頼の上に成立した人々の集合体なのであり、それゆえ「同胞意識」があまりに情緒的で人格依存的にならずに、一般化した形で成立しうる世界である。 そして同感の原理が一般的道徳規則をもたらすのは、あくまでこの「一般化された同胞意識」の世界なのである。なぜなら、その世界ではじめて、人々は相互に「中立的な」観察者たりうるからである。対面的な小社会の中では、人々は中立的でありえず、是認をすぐに虚栄に転化しかねない。また、全く見知らぬ人々の抽象的世界(人類社会といった)では、そもそも同感のしようがない。相手の境遇に想像上で身をおくといっても、おきようがないであろう。 結局、対面的な共同体を拡大した、またそれらをつないだ国家のような共同社会を前提にしてはじめて、虚栄を抑制できる「中立的観察者」が可能となると考えるほかないものと思われる》(同、 pp. 88f ) 佐伯氏は、「仲間意識」が生じる具体的な最大の範囲として「国家」を想定することで、〈虚栄を抑制できる「中立的観察者」〉像を浮かび上がらせようとして... Read more »
バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神 10月 15, 2022 騎士道は、欧州における戦闘を通して、経験的に導かれた「行動規範」である。 騎士道:中世ヨーロッパにおける騎士の精神的支柱をなした気風・道徳。忠誠・武勇に加えて、神への奉仕・廉恥・名誉、婦人への奉仕などを重んじた。(デジタル大辞泉) マックス・ウェーバーは言う。 《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件(くだん)の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねはならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する》(ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)脇圭平訳、 p. 83 ) この例からも、騎士道精神は、欧州において、独り騎士だけのものではなく、広く一般的なものだということが分かるだろう。 《恋の鞘(さや)当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである》(同) 大東亜・太平洋戦争における戦勝国がそうである。極東国際軍事法廷(東京裁判)は、まさに戦勝国の独善のなせる業(わざ)であった。文明社会にあるまじき「事後法」によって「A級戦犯」をでっち上げ、処刑した蛮行は、決して許されるべきものではない。 《あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦(えんせん)気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである》(同) 騎士道精神は、倫理観に繋がるものである。 《同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、... Read more »
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