「進歩主義」の虚妄(2) 全6回

《わが国には進歩的文化人という独特の人種が存在して、現実の推移などお構いなく、森羅万象を恣意(しい)的に解釈したばかりか、大胆にもその手法で未来の予測まで敢えてした。彼等の現状解釈や未来予測は片っ端から現実に裏切られたが、彼等は恬(てん)として恥じることなく、同じ過ちを繰り返した》(稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫)、p. 522)

 1991年にソ連邦が瓦解(がかい)し、共産主義国家建設の実験が失敗に終わったことで、マルクスの威を借りた「似非(えせ)梟(フクロウ)」の声は消えていった。彼らに見られたのは人間社会に対する「軽信」であった。現在は最終目標へ向けての発展過程と見做(な)す歴史観「進歩史観」が戦後日本を大手を振って歩いていた。が、それは結局マルクスの妄想に過ぎなかった。

 戦後日本は、マルクスの予言に楯突くことなど許されない空気に満ちていた。楯突けば「保守反動」などと罵声を浴びせられた。が、順風満帆の「進歩主義」に抗(あら)った人達もいないわけではなかった。その一人が保守論客の福田恆存(ふくだ・つねあり)氏であった。

《進步主義といふ言葉を平たく解繹(かいしゃく)すれば、社會を進步させようとする思想的態度といふことになる。だが、その實情(じつじょう)を見れば、むしろかう定義したはうがよい。つまり、それは社會を進步させまいとする方策を阻止しようとする思想的態度であると言つたはうが、より適切のやうに思はれる。

 その結果、當然(とうぜん)のこととして、それは行動であるよりは批評の形をとる。言論においてのみならず、行動においても批評的行動になる。またそれは監視人、警告者としての否定的、消極的な性格をもち、主義においては前向きでありながら、現實においては後向きの姿勢をとりやすい》(「進歩主義の自己欺瞞」:『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、p. 172

 社会は、必然として、資本主義から社会主義を経て共産主義へと向かう。これがマルクスの予言である。が、予言はいつまで経っても実現しない。資本主義の矛盾は資本主義自身が解消し、無理をして社会主義に軌道変更する必要はなかったのである。

 「マルクスの予言を邪魔する者たちがいる。だからいつまで経っても予言は実現しない」などと考えたのだとすれば、それは只の妄想である。邪魔者がいれば上手く行かないようなものを<必然>とは呼べない。つまり、マルクスの「予言」とは実質は「計画」に過ぎなかったということである。

 「計画」は放っておいても実現しない。そこには実現に向けての努力、つまり、人為的介入が必要である。当然、「計画」の邪魔をするものは排除せねばならない。【続】

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