「進歩主義」の虚妄(3) 全6回

《戰前から戰後への轉換(てんかん)には連續(れんぞく)はない。連續がない以上、それは進步ではない。進步主義の立場からは、それを革命と呼びたいであらう。が、事實は征服があつただけだ。征服を革命とすりかへ、そこに進步を認めたことに、進步主義者の獨りよがりと甘さがある》(『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、p. 174)

 進歩主義とは言いながら歩を前へ進めるわけではない。兎(と)にも角(かく)にも軌道を変えるために歩を横へ進めねばはじまらない。資本主義の流れを堰(せき)止め、社会主義、共産主義に乗り換えるのが進歩主義には不可欠なのである。資本主義は実態のある「現実の流れ」であるが、社会主義、共産主義はマルクスが考えた「架空の流れ」に過ぎない。うまく流れるか流れないかは実際にやってみなければ分からない。だからやってみた。が、うまく流れなかった。流そうとすれば無理を重ねる必要があった。人々を弾圧し情報を統制しなければならなかった。そのことは今の中共や北朝鮮をみても分かるだろう。

《彼等が愛するのは事實としての進步ではなく、價値としての進步である。進步の實質ではなく、進步の象徵である。彼等にとつて大事なのは進步の過程を步むことそのことではなく、一氣に進步の終鮎そのものに行きつくことである》(同)

 進歩主義とは進歩の名を借りた独善である。進歩だというのはマルクス主義者の詭弁(きべん)に過ぎない。実際起こったことは「弾圧」の歩を進めただけであった。まさに「地獄への道は善意で舗装されている」のである。

《いはば戰後の日本の特殊性があるのだ。つまり、日本の進步主義者は觀念において急進主義者でありながら、しかも居心地よく生きられる、さういふ氣分が一般にあるといふことである。そのため、進步を阻止するものよりも、進步主義的氣分を害するもの、いや、將來その可能性を含むものにたいして敏感に反應しやすい》(同)

 進歩の実(じつ)を得ようとすれば努力しなければならない。否、努力といった生易しいことでは済まされない。世の流れをマルクス主義に移そうとすれば、歴史の断絶たる「革命」が必要となる。が、身の回りは「革命」を起こさねばならないほど悲劇的状況にはない。切迫感もない。それどころか、マルクス主義の空想に微睡(まどろ)んでいられるほど世間は平穏である。が、このマルクス主義者の微睡みを壊そうとする者たちがいる。彼らはそれが許せない。【続】

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