「進歩主義」の虚妄(4) 全6回

《あらゆることについて「自由」を主張する彼等であるが、進步主義の前でだけは、彼等は自由になりえない。進步主義に手を解れることだけは許されない。といふことは、進步主義は現代の文明國に殘存する唯一のタブーだといふことを意味する。

 それはそれ自身において唯一最高の債値だからである。人々の問ひや疑ひはその一步手前まで、それ以外のあらゆるものに及んでゐるのだが、そこに達したとき、あたかもまじなひにかかつたかのやうに停止する。その先へは及ばない。なぜなら、進步主義について問ふことは進步的でなくなりはしないかといふ畏怖があるからだ。この感情にはなんの根據(こんきょ)もありはしない。人とは現實や歷史の逆行を恐れてゐるのであらうか。社會の進步が阻碍(そがい)されることを恐れてゐるのであらうか。さうではない。ただ自分が進步主義的でなくなりはしないかといふことだけを恐れてゐるのである。それは感情であり、面子であって、論理とはなんの關(かかは)りもない。問題は、今の知識階級が自分の内部にあるその感情だけを大事にしてゐるといふことにある。

 他のあらゆる感情にたいしては、それを單なる感情だと言つて卻(しりぞ)ける。それは單なる感情でしかないといふ、それだけの理由で彼等はそれらを蔑(さげす)み顧慮する必要のないものと思ひこんでゐる。感情的にさう思ひこんでゐるだけなのだが、それにもかかはらず、進步主義といふ感情だけは、蔑まぬどころか、それが感情に過ぎないといふことにすら氣づいてゐない》(『福田恆存全集 第5巻』(文藝春秋)、pp. 175-176

 自由は万人に認められるべきものであって、自分にだけ認められると考えるとすれば、それは傲岸不遜(ごうがんふそん)というものだ。が、進歩主義者は、進歩主義の考えを広める「言論の自由」を自ら行使しても、「公共の福祉」に反するとしてこれを否定する他者の「言論の自由」は認めない。これでは「自由」と言うよりも「得手(えて)勝手」と言うべきである。

《日本の進步主義者は、進步主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も惡質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の惡がひそんでゐることを自覺してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがつて、彼等は例外なく正義派である。愛國の士であり、階級の身方であり、人類の指導者である。そのスローガンは博愛と建設の美辭麗句で埋められてゐる。正義と過失とが、愛他と自愛とが、建設と破壞とが同じ一つのエネルギーであることを、彼等は理解しない。彼等の正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反對の惡をすっかり消毒し拂拭(ふっしょく)しさつたあとの善意だと思ひこんでゐる》(同、pp. 176-177)

 人間の本質は二律背反にある。まさに福田恆存氏の真骨頂である。【続】

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