「進歩主義」の虚妄(6) 全6回 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 10月 18, 2021 小林 未来学というのは、そういうアイディアからきてるんでしょう。おかしなものだね。 江藤 おかしなものですね、畏(おそ)れがないです。 小林 未来という言葉は、「未だ来たらず」という意味ですね。だけど、いまの未来学というものには、そういう意味なんか全然ないでしょう。 江藤 「未だ来たらず」じゃなくて、「未だ来たらざる」はずのものを、もうすでに、持っているという気持になりたいわけでしょう。 小林 ベルグソンは、「予言」というものは実は現在のことだと言っている。たとえば何年後の何月何日に月蝕があるという、これを予言だと人はみんないっているけれども、ちっとも予言じゃない。現在の計算にすぎない。時間が脱落しているからだ、というわけですね。 江藤 未来学をやる人は不確定ということを非常に嫌うわけですね。すべて確定していると思おうとするのでしょう。 小林 そうそう。だから、未来、未来といったって「未来」じゃないんだよ。ここに現代人の性格がよく出ている。 江藤 未来学者の人がしゃべっているのをききますと、人情味などというものはあまり感じられませんね。人間らしくないというか、ロボットがしゃべっているみたいなんです。とにかく数字の掴み出し方は的確です。つまり、世の中は当然こういうふうに進んでいく。時間は不可逆的である。不可逆的な時間の未来は、かくかく予測できる。なぜかといえば、コンピューターがそのように計測しているからだ、というように。 ですから、その話を聞いていると、枝葉末節では、へえ、そういうものかというふうに納得できるところもあります。しかし、根本的には、未来はこうなるにきまっている、未来をつくるものは、自分たちのようなテクノクラート、技術文明の専門家であり、それをつくらせる力は、大資本、大企業であると割り切っているところが気にかかります。面白いのは進歩的というか左翼的な学者の人たちも、そのこと自体に対しては反対しないわけですね。そうではなくて、コンピューターが集めてくる情報を、企業とか、政府が独占しているのはけしからんから、自分たちにもよこせというような形で反対するわけですね。ですからそのストラクチャーというんでしょうか、そういうふうに世界のコースがほとんど確定していてすでに来つつあると思えるもののほうに向かっているのだと考える点では、未来学者も左翼の人も同じだと思います。 ―『小林秀雄対談集 歴史について』(文藝春秋)、pp. 10-12 コンピュータの計算には人間の精神という不確定要素が組み込まれてはいない、否、組み込めやしない。だからコンピュータが計算した未来など予測と言うには余りにも貧弱である。1つの理想として未来を構想することは許されるにしても、それが唯一絶対的な目的地であるなどと考えないことである。そのようなことを考えれば、「全体主義」という落とし穴に嵌り込むだけである。【了】 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策 1月 07, 2022 経済活動の一般的な変動と、それに伴って繰り返し発生する大規模な失業の波に対処していくという、この上なく重要な問題が存在する。これこそが、われわれの時代にとっては最も重大で最も緊急を要する問題の1つであることは、いまさら言うまでもない。これを解決するにはいい意味での計画化を大幅に必要とするが、だからといって、計画主義者が市場に取って替えるべきだと主張しているような、特別な計画化が要求されるわけではない。少なくともそのような手段は不可欠ではまったくない。実のところ、多くの経済学者は、その究極的な治療策は、金融政策の分野で発見されるだろうと考え、しかもその対策は19世紀の自由主義とさえあらゆる点で両立できるようなものだろうと、希望的な判断を下している。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 156-157) 米国のノーベル賞経済学者ミルトン・フリードマンは、 《私自身は、過去の例を広く調査した結果…経済安定性の差は金融制度の違いに起因すると考えるようになった。過去の事例から判断する限り、第1次世界大戦中と終戦直後に起きた物価騰貴は、その3分の1は連邦準備制度に原因がある。以前の銀行制度がそのまま維持されていたら、あれほどの物価騰貴は発生しなかっただろう。また1920~21年、1929~33年、1937~38年の3度にわたる不況があそこまで深刻化したのは、連邦準備制度がやるべきことをやらず、やるべきでないことをしたからで、以前の通貨・銀行制度下ではああはならなかったはずだ。景気後退という程度のものであれば、あの時期にも別の時期にも発生したであろう。だがあれほど深刻な不況にまで進行した可能性は、きわめて低い》(M・フリードマン『資本主義と自由』(日経BPクラシックス)村井章子訳、 p. 103 ) と言う。 《もちろん、経済学者の中には、この間題は、政府の大規模な公共事業がきわめて巧みなタイミングで実施されることによって、初めて本当の解決が期待できるのだと信じている人々もいる。だが、このような解決策は、自由競争の領域にはるかに深刻な制限をもたらすかもしれない。この方向へ向けての実験がなされると、すべての経済活動が、政府統制と財政支出の増減に、より大きく依存していくことになる可能性があり、それを回避したいのであれば、その一つ一つの政策ごとにきわめて慎... Read more »
バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神 10月 15, 2022 騎士道は、欧州における戦闘を通して、経験的に導かれた「行動規範」である。 騎士道:中世ヨーロッパにおける騎士の精神的支柱をなした気風・道徳。忠誠・武勇に加えて、神への奉仕・廉恥・名誉、婦人への奉仕などを重んじた。(デジタル大辞泉) マックス・ウェーバーは言う。 《ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件(くだん)の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねはならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑怯にもこれを「正当性」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけでなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する》(ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)脇圭平訳、 p. 83 ) この例からも、騎士道精神は、欧州において、独り騎士だけのものではなく、広く一般的なものだということが分かるだろう。 《恋の鞘(さや)当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合ももちろん同じである》(同) 大東亜・太平洋戦争における戦勝国がそうである。極東国際軍事法廷(東京裁判)は、まさに戦勝国の独善のなせる業(わざ)であった。文明社会にあるまじき「事後法」によって「A級戦犯」をでっち上げ、処刑した蛮行は、決して許されるべきものではない。 《あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦(えんせん)気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである》(同) 騎士道精神は、倫理観に繋がるものである。 《同じことは戦敗者の場合にもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら――戦争が社会構造によって起こったというのに――戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、... Read more »
オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達 11月 30, 2021 賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを胆に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑(あんかん)としていられる理由がある。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 98) <賢者>は、他者のみならず自己にも疑いの目を向ける。人間は神でない以上、誰にでも間違いを犯す可能性があるからである。が、<愚者>は、他者を疑いなしに否定するが、自らを疑うことはしない。自らが間違っていることなど思いも寄らない。そもそも自らを疑う習慣がないのである。自らを疑わぬ人には、発見もなければ成長もない。ただ与えられたものを大事にしまっておいて、それをそのまま吐き出すだけである。 わたしは大衆人がばかだといっているのではない。それどころか、今日の大衆人は、過去のいかなる時代の大衆人よりも利口であり、多くの知的能力をもっている。(同、 p. 99 ) <大衆>は、知識が豊富であり、その意味で知的水準は決して低くはない。が、問題は、<大衆>は知識獲得の必要は感じても、その知識の歴史来歴にはほとんどといって興味がない。だから<大衆>が持っている知識は、表層的で薄っぺらなのである。「実用」には興味があっても「教養」には関心はない。それが<大衆>というものである。 大衆人は、偶然が彼の中に堆積したきまり文句や偏見や思想の切れ端もしくはまったく内容のない言葉などの在庫品をそっくりそのまま永遠に神聖化してしまい、単純素朴だからとでも考えないかぎり理解しえない大胆さで、あらゆるところで人にそれらを押しつけることであろう。(同) <大衆>は疑うことを知らない。だから正しいことも間違ったことも好悪の篩(ふるい)に掛けられて蓄積される。だから<大衆>の知識は自らのお気に入りに知識であり、正しいか正しくないかは与(あずか)り知らぬことである。したがって、仮に<大衆>の意見の間違いを指摘したとしても、<大衆>にとっては自分のお気に入りが否定されたとしか思われないだろう。<大衆>にあるのは好きか... Read more »
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