ザ・フェデラリスト(2)光と影の平衡

政府の活動力と実効性とを高めんとする賢明な熱意すら、実は専制権力を好む、自由の諸原理に反する考え方の所産なのであるとの汚名を着せられることもあろう。また他方では、人民の諸権利に対する危険を過度に憂慮する態度も、それは通常は心情における誤りというより頭脳における誤りなのだが、見せかけだとか、芝居だとか、公共の善を犠牲にした陳腐な人気取り策にすぎないとかいって非難されることもあろう。(『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)斎藤眞・中野勝郎訳:第1篇 ハミルトン、pp. 18f)

 政府が力を持ち過ぎれば「専制」となる。一方で、人民が力を持ち過ぎるのも「ポピュリズム」に堕ち込んでしまう。肝要なのは、政府と人民の力の平衡ということである。日本であれば、平衡の指針となる歴史伝統がある。が、米国のような歴史なき新興国において、この平衡をとるために綱渡り師が手に持つ「平行棒」となるものは存在しない。その意味で、ハミルトンの苦労が並み大抵なものでなかっただろうことは想像に難くない。

そして一方では、熱烈な愛には嫉妬が伴うのが常であり、自由への高貴な熱意も偏狭な不信の精神に侵されがちなものだということが忘れられることになろう。(同、p. 19

 物事には何であれ、光が射せば、当然そこには影が生じるということである。ここでもまた、光と影を如何に平衡させるのかが課題となるということである。

他方では、政府の活力は自由の保障のために不可欠であること、確かな慎重な判断に従えば両者の利害は本来分離しえないものであること、強固にして効率的な政府を熱望する一見厳しい外見よりも、むしろ人民の諸権利を標榜するもっともらしい仮面のかげに、かえって危険な野心が潜んでいることが、同じく忘れられることになろう。

歴史の教えるところでは、後者〔人民の友といった仮面〕のほうが、前者〔強力な政府権力〕よりも、専制主義を導入するのにより確実な道であった。そして共和国の自由を転覆するにいたった人びとの大多数は、その政治的経歴を人民への追従から始めている。すなわち、煽動者たることから始まり、専制者として終わっているのである。(同)

 個人の自由は、社会秩序が保たれていればこそ保障される。したがって、自由の保障のためには活力ある政府が不可欠だということである。自由主義において、活力ある政府は、本来的に、個人と衝突するようなものではない。一方、平等主義においては、個人の平等が追求させる中で、個人の活力が衰退し、その反転から、強い政府が要請される。当然、この政府は専制的とならざるを得ない。

 自由と平等は相反し、いずれを選択するのかで未来は大きく変わる。

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