アダム・スミス「公平な観察者」について(15)先験的とは

《まず「想像上の境遇の交換」が前提としてある。その上で「他人の諸情念を、その対象にとって完全に適合的なものとして是認することは、われわれはそれに完全に同感すると述べるのと等しい」のである。私が飢えているとき、隣人を縛り上げて食べ物を奪うという行為は、決して、先験的に不道徳なのではない》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 61f)

 〈先験的〉とは、「経験に先んじて」ということであるが、イマヌエル=カントはこの言葉を用いて、深遠な学説を唱えているので、その触りの部分を見ておこう。

《空間・時間において直観される一切のものは、あくまでわれわれに経験される「現象」であって、それ自体存在するもの(=物自体)ではない。およそわれわれが表象する対象は、延長をもった「物」、あるいはなんらかの変化の系列であり、われわれの経験の向こうにそれ自体存在しているもの(物自体)ではないのだ。

 人間は、ただその感性形式を通して“現れてきた”対象しか、表象したり、認識したり、経験することはできない。そしてその原因となる「物自体」は、われわれには決して経験されないものとしてとどまっている。この学説を私は「先験的観念論」と名づける。また、これを形式的観念論と呼んで、実質的観念論――実在それ自体を疑い否定する経験的観念論――と区別してもよい。

 ところが実在論者は、この「現象」にすぎないものを、物自体と考える。つまり、実在物=物自体と考える。また、われわれの先験的観念論の立場は、経験的観念論(⇒存在物の現実存在それ自体を疑い否定するバークリー、ヒュームなどの経験論)とも同じものではない。

 先験的観念論は「現象」の実在を否定はしないが、それがあくまで人間の経験にとっての「現象」であり、「対象それ自体」として実在するものではないことを主張する。さらにまた、われわれに与えられる「心」(心意識)のありようも、あくまで「現象」であると主張する。

 たとえば「月に生き物がいるかもしれない」ということは、かつて誰もそれを見たことがないとしても、経験の可能性としてはありうることだから、これを絶対的に拒否することはできない。しかし言うまでもないが、そういったことはあくまでわれわれの経験の可能性の枠内のことであって、「物自体」としての問題ではない。

 要するに、われわれに現実的に与えられているものは、知覚から知覚へと継起してゆく「経験的進行」だけである。つまり感性形式(時間・空間)を通してわれた対象の表象能力なのである。それは「物自体」の表象ではなく経験としての「現象」であり、両者は明確に区分されねばならない。

 繰り返せば、およそわれわれに対象の直観=表象をもたらすのは「感性」の能力であって、それ以外にわれわれが対象を受けとる原因はまったく知られない。さまざまな対象を経験するその根本原因として、われわれは「先験的対象」(物自体)というものを想定できるが、しかしわれわれは「物自体」を経験することはできず、ただ、それが感性を通して与えられる形でのみ、われわれは対象一般を経験するのだ》(竹田青嗣『完全解説 カント「純粋理性批判」』(講談社):Ⅰ 第2部門 第2部 第2編 第6節 宇宙論的弁証論を解決する鍵としての先験的観念論、pp. 249f



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