アダム・スミス「公平な観察者」について(23)「言葉」を疑わないデカルト

《デカルトは一切の懐疑に突入する。一切の意見または知識を根柢からくつがえし、『省察』第2第1段の言葉を借りれば、

「最初の土台から a primis fundamentis」ことごとく新しく、原理を立てなければならぬ。一切を疑うとはどういうことであるか。一切の意見または知識を疑いのうちに引き入れることであろう。言いかえれば一切の意見または知識の真であるかどうかが問われることであろう。しかしこの糺問(きゅうもん)は、意見または知識をば、その真理性について1つ1つ順次に追窮してゆくことではない。これは「際限のない仕事である」ばかりでなく、一切についてその真理性を疑うということがけっきょく成り立ちえないであろう。

それ故に、一切の真理性を疑うことが可能であるならば、それは順次に1つ1つにではなく、一挙にして同時に可能であらねばならない。すべての意見または知識のそれぞれの特殊的内容の相違を超えて、「その真理性については疑わしい」という「一点において合一するような仕方で」疑われなければならない。そうならば、それらの特殊的内容の相違を超えて、それらの意見・知識を異なる意見たらしめ、異なる知識たらしめている「真理そのもの」が疑われるということである。さらに言いかえれば、箇箇(ここ)の意見、箇箇の知識を真なる意見、真なる知識たらしめている「土台(fundamentum)」が、すなわち「真理そのもの、または真理の本質」が、疑われるのである。

このゆえに、すべての疑われうるものとは、何よりもまず「真理の本質についての懐疑」であるということになる》(落合太郎「訳者註解」:デカルト『方法序説』(岩波文庫)、pp. 190f)

〈箇箇の意見、箇箇の知識を真なる意見、真なる知識たらしめている「土台」〉とは、「言葉」ではないのだろうか。が、「言葉」を疑ってしまっては、真偽を判断することは出来なくなる。すなわち、すべてを疑う、そして、すべての「土台」を疑うと言いながら、「言葉」というある意味最も疑わねばならないものを疑えなかったという矛盾が生じてしまったということだ。

《第2に、一般に「異なる知識」とは何であるか。端的にいえば「有るものが有るがままに知られていること」である。有るものが有るがままに知られていることが、知識を異なる知識たらしめている根柢、すなわち真理の本質である。これを、くどく言いなおせば、「有るものがそうで有るとおりに、そのとおりに知られ、(または)有るものが有るとおりに、そのものが有るとして知られて有る」こと。

これのまったく逆なるものが「虚偽の本質」である。そこで、いままで真であるとして受け入れられていた達見・知識のうちにおいて、そうで有ると知られていた有るものが、果してそれ自身においてそうで有るのか。また、そのものが有るとして知られていたものが、果してほんとうに有るものなのか。してみると、真理の本質への懐疑は必然的に有るとはどういうことかという「有」への懐疑と結びついている。

デカルトが夢について語り、「老檜なる悪霊」の議(『省察』第1の末段)をすることの底にはミニの「有」への懐疑がこもっているのである。すべて疑いをいれうるものについて問うことは、ひっきょう真理の本質と「有」そのものとに関する懐疑である》(同、pp. 191f

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