アダム・スミス「公平な観察者」について(24)デカルトのごまかし

《第3には、疑う者自身の、すなわちこの場合はデカルト自身の「有り方」のことを考えねばならない。ところで懐疑は思惟する人間の1つの根本的な有り方である。そうならば、疑う者自身はそのとき疑いの外に立って「有る」ことはできない。まして、一切を疑うとなると、疑う者自身の「有」は疑いそのもののうちにすっぽり入りこんでしまい、疑いそのものになりきらなければならない。自分の「有る」ということ自体が極点まで疑わしくなり、ここにはじめて一切を疑うということが成立する。デカルトの場合はどうか。この意味での懐疑としてみとめられるのであるか。あるいは言葉だけのものなのであるか。またあるいは外なる対象へ向かうだけにとどまるのであるか》(落合太郎「訳者註解」:デカルト『方法序説』(岩波文庫)、p. 192)

 すべてのものを疑うのであれば、「我思う」における「我」も、「思う」ための道具たる「言葉」も疑わざるを得ない。当然、「我思う」ということ自体がまったく疑わしいということになり、「我在る」は導かれない。詰まり、すべてのものを疑えば、何もない「虚無主義」へと落ち込まざるを得ないのだ。

《この問には、デカルトみずから『省察』第2の劈頭(へきとう)、次の言葉をもって答えている。

「昨日の省察(第1省察)によって私は懐疑のうちに投げこまれた。それは私のもはや忘れえないほど大きなものであり、しかもそれをいかなる仕方で解決すべきものであるかを私は知らない。それどころか、あたかも渦まく深淵の中へ不意に落ちこんだように、私は狼狽して、底に足をつけることも、泳いで水面へ抜け出ることもできないほどであった。」

必要にして十分な答であると思う。もとより、かりそめの疑いではなく、また単に対象的な、外へ向けられただけの疑いにとどまるものでもなく、それは極度に推しすすめられた疑いであって、疑う者自身の「有」までも追いつめられていることがわかる。そこにはcon-jectus sumともあって、疑う者自身まで懐疑の淵の中にもろともに投げこまれたのである。かつまた、不意に、思いもよらぬかたちで(ex improviso)、とあるとおり、おのれの意志ではどうにもならぬ仕方で.追いたてられた。そうして渦の巻いている淵にとびこんでしまった)(同、pp. 192f

 ここでデカルトは変調を来(きた)す。

《次に、私とは何であるかを注意ぶかく検査し、何らの身体をも私が持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの世界も、何らの場処もないと仮想することはできるが、そうだからといって私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在するということがきわめて明証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるものがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。このことからして、私というものは1つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。

そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場処をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを、したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別箇のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである》(デカルト『方法序説』、p.45f

 疑わしいものは斥けるという真偽の話から、「在る」という存在論に論点が掏(す)り替わるっているのだ。これは、「レトリック」(修辞法)ではなく「トリック」(ごまかし)である。

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