アダム・スミス「公平な観察者」について(25)「わたし」は流動的
随分遠回りしたが、話をヒュームに戻そう。
they are nothing but a bundle or collection of different perceptions, which succeed each other
with inconceivable rapidity, and are in a perpetual flux and movement – David
Hume, A Treatise of Human Nature, BOOK I.: PART IV.: VI.
《人間は、想像を絶する速さで継起し、絶え間なく流動し運動し続けている、様々な知覚の束や集合にすぎない》―
ディヴィッド・ヒューム『人性論』:第1編 第4部 第6節
詰まり、「わたし」とは、固定化された確かなものではなく、優れて流動的なものだということだ。
《われわれは、外界からのさまざまな刺激をえ、それを一定の知覚にまとめる。これは次々と継続的に起こることでこの知覚に前もって確かな「自我」というものがあるわけではない。しかし、この次々と生じる知覚の流れが、考えてみれば「わたし」というものなのではないか、こうヒユームは考える。
こうして、変化する外部への知覚が継続することによって知覚は記憶とともに、自己という「同一性」を想定するにすぎない。知覚がある知識を人に与えるのは、ただ経験の強さが与える印象からくる心的インパクトなのである。つまり、経験の中で生じる出来事や印象やらからくる「信念」の強度によるのだ。本質的にはそんな確かなものはアプリオリには存在しない。「わたし」とはせいぜいのところ、「わたし」という名で名指ししている知覚の継続する流れ、つまり「慣習」にすぎないのだ。こうして、確かな主体というアイデンティティがあるのかどうかはいかにも疑わしい》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 69f)
Our eyes cannot
turn in their sockets without varying our perceptions. Our thought is still
more variable than our sight; and all our other senses and faculties contribute
to this change; nor is there any single power of the soul, which remains
unalterably the same, perhaps for one moment. – Hume, Ibid.
《我々の目は、眼窩(がんか)で向きを変えれば、常に知覚は変化する。我々の思考は、視覚以上にずっと変化し易い。そして、他のすべての感覚や機能がこの変化に寄与している。また、おそらく片時も不変のまま変わらない精神力など1つもない》―
ヒューム、同
The mind is a kind
of theatre, where several perceptions successively make their appearance; pass,
re-pass, glide away, and mingle in an infinite variety of postures and
situations. There is properly no simplicity in it at one time, nor identity in
different; whatever natural propension we may have to imagine that simplicity
and identity. The comparison of the theatre must not mislead us. They are the
successive perceptions only, that constitute the mind; nor have we the most
distant notion of the place, where these scenes are represented, or of the
materials, of which it is compos’d. – Ibid.
《心は、幾つもの知覚が次々に登場し、通り過ぎ、また通り過ぎ、そっとその場を離れ、限りなく様々な位置と状況の中で入り混じる一種の劇場である。当然、我々に元々、単純なものと同一のものを想像してしまうどんな性向があろうとも、片時も心の中には単純なものはないし、様々で同じものとてない。この劇場の比喩を誤解しないでほしい。これらの知覚は、心を構成する連続的な知覚にすぎない。また、これらの場面が表現されている場所や、この作品が構成されている素材については、まったく想像もつかないのである》― 同
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