アダム・スミス「公平な観察者」について(26)道徳的な人間
It must be some one impression, that gives rise to every real idea. But self or person is not any one impression, but that to which our several impressions and ideas are suppos’d to have a reference. If any impression gives rise to the idea of self, that impression must continue invariably the same, thro’ the whole course of our lives; since self is suppos’d to exist after that manner. But there is no impression constant and invariable. Pain and pleasure, grief and joy, passions and sensations succeed each other, and never all exist at the same time. It cannot, therefore, be from any of these impressions, or from any other, that the idea of self is deriv’d; and consequently there is no such idea. – David Hume, A Treatise of Human Nature, Book I. Part IV. Section VI.
(あらゆる実在の観念を生み出すのは、ある1つの印象に他ならない。しかし、「自己」や「私」は、ある1つの印象ではなく、我々の幾つかの印象と観念が参照すると考えられているものである。何らかの印象が自己という観念を生じさせるとすれば、その印象は、我々の生涯を通して、常に同じであり続けなければならない。自己とはそのように存在すると考えられるからである。しかし、不変の印象など存在しない。苦痛と快楽、悲しみと喜び、情熱と感覚は、次々継起するが、決してすべてが同時に存在することはない。したがって、自己という観念が派生するのは、これらの印象のいずれからでも、他のどんな印象からでもあり得ないから、そのような観念は存在しないのである)―
デイヴィッド・ヒューム『人性論』:第1篇:第4章:第6節
《道徳的な主体としての人間などという言い方が、いかに内実の定かでないものか明確だろう。シャフツベリーやアディソンといったヒュームやスミスの先駆者たちと、彼らを区別するのはこうした認識なのである。シャフツベリーたちにとっては、道徳的な人間とは、利他的で奉仕的な人間でよかった。しかし、ヒュームやスミスにとっては、道徳的人間などというものは、アプリオリ(先験的)には存在しない。それどころか、主体というアイデンティティさえ自明のものとしては存在しないのである。
だからこそ、ヒュームは、社会的な規範に従うことが「有益だ」と述べたのである。この底にあるのは大変なニヒリズムというほかない。道徳の確実な基準などというものは存在しないというのだから》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 70)
The only
difference betwixt the natural virtues and justice lies in this, that the good,
which results from the former, arises from every single act, and is the object
of some natural passion: Whereas a single act of justice, consider’d in itself,
may often be contrary to the public good; and ’tis only the concurrence of
mankind, in a general scheme or system of action, which is advantageous. - Ibid.,
Book III. Part III. Section I
(自然な美徳と正義との違いは、次のことでしかない。前者から生じる善は、ありとあらゆる行為から生じ、何某かの自然な感情の対象である一方、ありとあらゆる正義の行為は、それ自体で考えれば、公共善に反することも多く、行動の一般的な図式や体系において、人類が協力してはじめて利益を齎(もたら)すのである)―
同、第3篇:第3節:第1章
When I relieve
persons in distress, my natural humanity is my motive; and so far as my succour
extends, so far have I promoted the happiness of my fellow-creatures. But if we
examine all the questions, that come before any tribunal of justice, we shall find,
that, considering each case apart, it wou’d as often be an instance of humanity
to decide contrary to the laws of justice as conformable to them. -bid.
(困っている人を助けるのは、自然な慈悲心が動機であり、救済が及ぶ範囲で、私は同胞の幸せを鼓舞してきたのである。しかし、正義の法廷に持ち込まれるすべての問題を調べてみると、それぞれの事案を別個に考えれば、正義の法に反して判決を下すことが、それに準拠して判決を下すことと同じくらい、慈悲心の例証となるだろう)― 同
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