アダム・スミス「公平な観察者」について(4)帰納法
《人間は誰しも世間の賛同を得たい、世間からよく思われたいと感じています。ですから、他人の目を気にして行動するわけです。ところが、 100人中100人に賛同してもらうことはできないわけです。誰かに気に入られようとすれば、別の人には嫌われる可能性もあります。一様に気に入られることはできないのです。
では、誰の基準に合わせればいいのか?》(木暮太一『アダム・スミス
ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 60)
〈人間は誰しも世間の賛同を得たい、世間からよく思われたい〉と感じているとすれば、それは世間知らずのお坊ちゃんでしかない。人間、大人になれば、世間には様々な人がいて、賛同もあれば反対もある、よく思う人もいればよく思わない人もいる、ということが分かる。特定の人の賛同を得ようとすることは可能だし、よく思われようとすることもあるだろう。が、世間全般にそれを期待することなど有り得ない。
《自分が気にするべき「相手」は、他人ではなく、自分の中に設けた「基準」なのです》(同、p. 61)
世間には色々な人がいるから、世間の反応をいちいち気にしても仕方がない。気にすべきは、〈自分の中に設けた「基準」〉だ、と木暮氏は言うのである。が、世間には色々な人がいるからこそ、世間の反応を気にしなければならないのではないか。様々な意見があってはじめて、自分の中に公正な「判断基準」を持つことが出来るからである。賛成意見も反対意見も取り入れるからこそ公正な基準と成り得るということだ。
また、〈自分が気にするべき「相手」は…自分の中に設けた「基準」〉という言い方も気に懸(か)かる。ここで言う〈基準〉とは何か。
対外的な活動の基準となるのが、法律と習律である。が、対内的活動にはこのような基準がない。だから我々は物事の是非を「考える」。そこで用いられるのが、「帰納法」という手法である。
38 The idols and false notions which
are now in possession of the human understanding, and have taken deep root
therein, not only so beset men’s minds that truth can hardly find entrance, but
even after entrance obtained, they will again in the very instauration of the
sciences meet and trouble us, unless men being forewarned of the danger fortify
themselves as far as may be against their assaults.
(今や人間の理解を支配し、そこに深く根を下ろしているイドラや誤った観念は、真理がほとんど入り込めないほど人の心を悩ませているだけでなく、たとえ入り込めたとしても、その危険性を予知し、その攻撃から可能な限り身を守らない限り、科学が導入されるまさにそのとき、再び私達の目に触れ、私達を悩ますことになるだろう)
※イドラ:事物の正しい認識を妨げる先入見や偏見。
39 There are four classes of idols
which beset men’s minds. To these for distinction’s sake I have assigned
names—calling the first class Idols of the Tribe; the second, Idols of the
Cave; the third, Idols of the Marketplace; the fourth, Idols of the Theater.
(人の心を悩ますイドラには4つの分類がある。 区別するために、名前をつけた。第1を「部族のイドラ」、第2を「洞窟のイドラ」、第3を「市場のイドラ」、第4を「劇場のイドラ」と呼ぶこととする)
40 The formation of ideas and axioms
by true induction is no doubt the proper remedy to be applied for the keeping
off and clearing away of idols. To point them out, however, is of great use;
for the doctrine of idols is to the interpretation of nature what the doctrine
of the refutation of sophisms is to common logic.
(真の帰納法によって観念や公理を形成することは、イドラを遠ざけ、一掃するために適用されるべき適切な治療法であることは間違いない。
しかしながら、それらを指摘することは、非常に有益なのだ。というのは、イドラの教義と自然の解釈の関係は、詭弁の反論の教義と一般論理学の関係と同じだからである)―
フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』
帰納法とは、経験によって得た知識に共通する事実や心理を抽出し「法則性」を導き出す手法である。私達は、帰納法を用いて、物事の理非曲直を判断するということだ。
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