アダム・スミス「公平な観察者」について(5)善悪の裁判官

《社会全般で榛準的な判断基準があればいいのです。周りにいる一人ひとりは偏った見方をするかもしれませんが、社会全般で見れば、標準的で偏りがない評価をしてくれます。その基準を参照できればいいわけです。スミスはその基準を「自分の中に作る」と考えました》(木暮太一『アダム・スミス ぼくらはいかに働き、いかに生きるべきか』(日経ビジネス人文庫)、p. 62)

 〈社会全般で見れば、標準的で偏りがない評価をしてくれます〉とは何と楽観的な話だろう。そもそも〈社会全般〉とはどういうものを想定しているのであろうか。マスコミの世論調査のようなものか。が、個人の評価などそのような一斉調査が出来るはずがない。だとすれば、せいぜいが身近にいる多くの人達の評価ということになるのだろう。が、社会全般のような大きな母集団であれば、一定公正な評価も期待できようが、身近の多くといった小さな母集団であれば、評価のブレ幅が大きくならざるを得ない。

 もし、木暮氏の言うように、社会全般による公正な評価が得られるのであれば、わざわざ自分の内部に「公平な観察者」(impartial spectator)など想定する必要がない。社会から必ずしも公正な評価が得られるとは限らないから、自分の内部に「公平な観察者」を想定する必要をスミスは感じているのだ。

《常に参照でき、しかも偏っていない道徳規準を周囲に求めることはできません。そのため結局は自分の中に善悪の判断基準を持つようになるとスミスは考えました》(同、p. 63

 これも誤読であろう。木暮氏は、〈善悪の判断基準〉を自分の中に持つと言うが、そもそもそのような基準は存在しようがない。我々は、物事の是非をそのような基準に照らし合わせて判断しているのではない。自分の経験に照らし、其の時そのとき、帰納的に1つひとつ考えるのだ。過去に同じ事例があれば、それを踏襲することもあるかもしれないが、それとて前回とは置かれた状況は異なっているであろうから、もう一度検討を加える必要出てくるはずである。

《つまり、人は自分の中に「偏りがない、善悪の判断基準」を持つ、「善悪のジャッジ(裁判官)」を持つのです》(同)

 が、そのような基準をもつことは誰にも不可能である。ただし、「偏りがない、善悪の判断基準」と「善悪の裁判官」は別物であり、裁判官は自分の中に実在するに違いない。

《自分の中に、自分の人格とは別の「裁判官」「評価者」を作って、その「裁判官」の顔色をうかがいながら、自分の行いが賛同されるべきものなのか、批難されるべきものなのかを判断して行動するというわけです》(同)

 スミスは、裁判官の顔色を窺うなどといった下種(げす)なことを言っているのではない。人は恐らく誰しも自分の中に物事を判断する別の自分を持っているはずだ。「考える」という作業は、この判断者との対話によって行われる。それをスミスは、「裁判官」(judge)と呼んでいるのだ。

《スミスはこの「裁判官」を「公正な観察者」とも呼びました。わたしたちの行動を、公正な目で観察し是非を判断する「公正な観察者」なのです》(同)

 が、「裁判官」と「公正な観察者」は、言葉の性質上別物と考えるべきではないか。裁判官は判断を下すことがその職務であるが、公正な観察者は判断はしない。ただ、物事を公正に観察し、情報を抵抗してくれるだけだ。

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達