アダム・スミス「公平な観察者」について(34)金持ちや権力者の感情すべてに同調する人間の気質

《こうして、観察されること、注目されること、あるいは、明確な是認によって注目されることは、ある人々をとりわけ「公衆の面前」へと押し出す。いうまでもなくそれは富をもった上流の人々だ。彼らはつねに公共的注目の的となる。そして、富裕な人々、勢力がある人々がとりわけ是認を伴って注視されることが、「諸身分の区別と社会の秩序」を作り上げた》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 90f)

Upon this disposition of mankind, to go along with all the passions of the rich and the powerful, is founded the distinction of ranks, and the order of society. Our obsequiousness to our superiors more frequently arises from our admiration for the advantages of their situation, than from any private expectations of benefit from their good-will. Their benefits can extend but to a few, but their fortunes interest almost every body. We are eager to assist them in completing a system of happiness that approaches so near to perfection; and we desire to serve them for their own sake, without any other recompense but the vanity or the honour of obliging them. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, Part 1. Section 3. Chap. 2

(こういった金持ちや権力者の感情すべてに同調する人間の気質の上に、階級区別や社会秩序は成り立っている。私達が目上の人に媚び諂う(こびへつらう)のは、彼らの善意からの利益を個人的に期待するというよりも、彼らの立場が優位であることをしばしば称賛するからである。彼らの利益はごく限られた人にしか及ばないが、彼らの幸運はほとんどすべての人の関心を引く。私達は、彼らが完璧に近い幸せの体制を完成させることをしきりに援助したがり、彼らの喜ぶことをするという虚栄心や名誉以外何の報酬もないのに、彼らのために彼らに奉仕したがるのである)― アダム・スミス『道徳感情論』第1部 第3篇 第2

Neither is our deference to their inclinations founded chiefly, or altogether, upon a regard to the utility of such submission, and to the order of society, which is best supported by it. Even when the order of society seems to require that we should oppose them, we can hardly bring ourselves to do it. That kings are the servants of the people, to be obeyed, resisted, deposed, or punished, as the public conveniency may require, is the doctrine of reason and philosophy; but it is not the doctrine of Nature. Nature would teach us to submit to them for their own sake, to tremble and bow down before their exalted station, to regard their smile as a reward sufficient to compensate any services, and to dread their displeasure, though no other evil were to follow from it, as the severest of all mortifications. – Ibid.

(私達が彼らの性向に服従するのは、主としてあるいは全く、そのような服従が有用であり、服従することが最もよく社会秩序を支えられるという点に基づいているわけではない。社会秩序からすれば、彼らに反対しなければならないと思われるときでさえ、私達はほとんど反対する気にならない。王は、市民の都合に応じ、従ったり、抗(あらが)ったり、退位させたり、罰したりする人民の下僕であるということは、理性と哲学の教義であるが、それは造物主の教義ではない。王のために王に服従し、王の高貴な地位の前に震え、ひれ伏し、王の微笑みを、如何なる奉仕をも償うに十分な報酬と見做し、他に災いが降りかからないとしても、全ての苦痛のうちで最も過酷なものとして王が不機嫌となるのを私達が恐れるように造物主はしたのである)― 同

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