アダム・スミス「公平な観察者」について(39)上位にある「内部の法廷」

To persons in such unfortunate circumstances, that humble philosophy which confines its views to this life, can afford, perhaps, but little consolation. Every thing that could render either life or death respectable is taken from them. They are condemned to death and to everlasting infamy. Religion can alone afford them any effectual comfort. She alone can tell them, that it is of little importance what man may think of their conduct, while the all-seeing Judge of the world approves of it. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, 6th edition: Part3. Section 1. Chap. 2

(このような不幸な境遇に置かれた人々にとって、視野を現世に限定した謙虚な哲学は、おそらくほとんど慰めにはならないだろう。生か死のどちらかを立派なものにし得るあらゆるものが、彼らから奪われている。彼らは死を宣告され、永遠に汚名を着せられる。宗教だけが、彼らに何某か有効な慰めを与えられる。宗教だけが、自分たちの行いを人間がどう思おうと、すべてを見通す審判者がそれを認めている間は、ほとんど重要ではないということを彼らに教えられるのである)アダム・スミス『道徳感情論』第6版:第3部 第1篇 第2章

She alone can present to them the view of another world; a world of more candour, humanity, and justice, than the present; where their innocence is in due time to be declared, and their virtue to be finally rewarded: and the same great principle which can alone strike terror into triumphant vice, affords the only effectual consolation to disgraced and insulted innocence. – Ibid.

(宗教だけが、彼らに別世界、すなわち、やがて彼らの潔白が証明され、徳が最後に報われ、勝利に酔いしれた悪を恐怖に陥れることができるのと同じ大原則が、辱められ侮辱された無実を唯一効果的に慰める、現世よりも正直で、人道的で、公正な世界の景色を提示できるのである)― 同

《法廷は彼自身の内面にあるのである。世間の評価や「外部の法廷」よりも、この「内部の法廷」の方が絶対なのである。内部の法廷をさばくのは「すべてを見ているこの世界の裁判官」なのだ。ここでカラスという新教徒の神父の例が持ち出されるのはあるいは象徴的というべきかもしれない。むろん、彼は「神」に対してのみ義をもっており、「神」の審判のみを信じていた。地上の審判は「神」の審判に対しては「下級の法廷」であった。だから、スミスが明示的に述べているわけではないが、この「内部の法廷」の裁判官、「すべてを見ている裁判官」は究極には「神」である、といっても間違いではないだろうと思われる》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 103f

 「外部の法廷」と「内部の法廷」を言い換えれば、それぞれ「世俗の法廷」と「聖なる法廷」が対応する。詰まり、通常の「法廷」とは別に、神の裁きによる「法廷」があるということだ。キリスト教信者にとってより上位にあるのは、「神の裁きによる心の中の法廷」なのである。

※佐伯氏は誤解しているようだが、カラスは神父ではなく、衣料店主である。この事件は、新教徒であるカラスが、新教から旧教に改宗した長男を殺害した容疑がかけられたものである。

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