アダム・スミス「公平な観察者」について(40)神の存在

When the general rules which determine the merit and demerit of actions, come thus to be regarded as the laws of an All-powerful Being, who watches over our conduct, and who, in a life to come, will reward the observance, and punish the breach of them; they necessarily acquire a new sacredness from this consideration. That our regard to the will of the Deity ought to be the supreme rule of our conduct, can be doubted of by nobody who believes his existence. The very thought of disobedience appears to involve in it the most shocking impropriety. – Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, Book 3. Section 3

(こうして、行為の功罪を決める原則が、私達の行いを見張り、来世において、それを遵守すれば報い、違反すれば罰する全能の存在の法として見做されるようになると、必然的に、この考察から新たに神聖なものを獲得する。神の意志を尊重することが私達の行いの最高規範であるべきであるということは、神の存在を信じる者なら誰も疑いを容(い)れない。神に背くことを考えること自体が、最も恐ろしい不適切さを含んでいるように思われるのである)― アダム・スミス『道徳感情論』第3部:第3篇

How vain, how absurd would it be for man, either to oppose or to neglect the commands that were laid upon him by Infinite Wisdom, and Infinite Power. How unnatural, how impiously ungrateful not to reverence the precepts that were prescribed to him by the infinite goodness of his Creator, even though no punishment was to follow their violation. The sense of propriety too is here well supported by the strongest motives of self-interest. The idea that, however we may escape the observation of man, or be placed above the reach of human punishment, yet we are always acting under the eye, and exposed to the punishment of God, the great avenger of injustice, is a motive capable of restraining the most headstrong passions, with those at least who, by constant reflection, have rendered it familiar to them. – Ibid.

(人間が、無限の知恵と無限の力によって自分に課せられた命令に逆らうか、無視することは、何と虚しく、何と馬鹿げたことだろうか。創造主の無限の善意によって定められた戒律を、たとえその違反の後に罰が下されないとしても、畏敬の念を抱かないことは、何と不自然で、何と不敬なことだろうか。また、このような礼儀正しさの感覚は、私利私欲という最強の動機によって支えられている。たとえ人間の観察から逃れ、人間の懲罰の及ばないところに置かれようとも、不正の偉大な復讐者たる神の目の前で常に行動し、その懲罰に晒(さら)されているのだと考えることは、少なくとも絶えず反省することによってそれに親近感を抱くようになった者にとっては、この上ない強情を抑えることの出来る動機となるのである)― 同

《こうして、道徳原理においても「神の見えざる手」は働いているのである。あるいは、監視するという意味でいえば「神の見えざる目」とでもいうのが適切かもしれない。「神の見えざる目」によって内面の法廷は監視されており、ここに初めて「世間の評判」を越えた絶対的な基準の根拠がでてくることになる」(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 104

 「神の存在」なしには、道徳原理を考えることは出来ないというのがスミスの立場である。ニーチェは、「神は死んだ」と言ったが、そのことは科学万能となったということではなく、何が正しいのかが分からなくなってしまったということだ。

 私は、必ずしも「神の存在」を肯定するわけではないけれども、社会秩序を維持するためには、何某か絶対的存在を架空し想定することが必要なのではないかとは思っている。

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