アダム・スミス「公平な観察者」について(42)非利己的行為の評価
《この自己規制を行った人はもはや上流階級の人である必要もない。そもそも上流階級に道徳のモデルを求めることは、それ自体が、「称賛を欲する」という虚栄と結び付いているのではないか。世間の評価などというものも、この上流であることに対する感嘆と結び付いているのがこの世の習わしというものだろう。なぜなら「人類のうちの大群衆は、富と上流の地位の感嘆者であり崇拝者」だからであり「たいていの人にとっては、富裕な人と上流の人の高慢と虚栄が、貧乏な人の確固とした値打ちよりもはるかに感嘆されるものなのである」からだ》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、p. 104)
ニーチェは、上流階級に合わせた道徳を次のように批判する。
《彼ら〔道徳史家〕の道徳系譜学のお粗末さ加減は〈よい〉という概念および判断の由来を調べることが問題となるそのときに、初っぱなからたちどころに暴露する。「もともと非利己的行為は」――と彼らは宣告する――「その行為を実地にしてもらい、かくてそれら利益をうけた人々の側から賞讃されて、〈よい〉と呼ばれた。後になって、この賞讃の起源が忘れられ、かくして非利己的行為は、それが習慣的につねに〈よい〉と賞讃されたというだけの理由で、そのまままた〈よい〉と感じられるようになった、――まるでその行為それ自体が何か〈よいもの〉であるかのように。」
ただちに見てとられるとおり、この最初の推論からしてすでに、イギリス心理学者の特異体質の典型的特徴をすべて含んでいる。――〈功利〉、〈忘却〉、〈習慣〉、そして最後に〈錯覚〉、これらすべてのものが評価の基礎とされており、これまで高級の人間はこの基礎に立つことをもって人間たるものの一種の特権ででもあるかのように誇ってきた。この誇りが挫かれ、この価値評価が無価値にされねばならぬ》(ニーチェ「道徳の系譜」:『ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜』(ちくま学芸文庫)信太正三訳、p. 377)
《この上流階級では、成功と昇進は無知高慢な上長者たちの気まぐれしだいなのである。ここでは「社交界の人と呼ばれる、あのさしでがましくばかげたしろものの、外面的な品位、とるにたらぬ身だしなみ」こそが感嘆を受けるのだ。そして大衆は、富裕な人々と上流の人々を感嘆し模倣しようとする。だからどちらも同じ穴のムジナだ。虚栄に満ちた上流階級とこれに追従(ついしょう)しようとする大衆、これらが「世間の評判」というものの正体である。この不確かに移ろいゆくものの中には、是認の確かな根拠など存在しない。それがあるとすれば「神の見えざる目」を内部にもった自己規律以外にないのである》(佐伯、同、pp. 104f)
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