アダム・スミス「公平な観察者」について(45)「確かな自己」を求めて
Our sensibility to personal danger and distress, like that to personal provocation, is much more apt to offend by its excess than by its defect. No character is more contemptible than that of a coward; no character is more admired than that of the man who faces death with intrepidity, and maintains his tranquillity and presence of mind amidst the most dreadful dangers.
We esteem the man who supports pain and even torture with manhood and firmness; and we can have little regard for him who sinks under them, and abandons himself to useless outcries and womanish lamentations. A fretful temper, which feels, with too much sensibility, every little cross accident, renders a man miserable in himself and offensive to other people. A calm one, which does not allow its tranquillity to be disturbed, either by the small injuries, or by the little disasters incident to the usual course of human affairs; but which, amidst the natural and moral evils infesting the world, lays its account and is contented to suffer a little from both, is a blessing to the man himself, and gives ease and security to all his companions. - Adam Smith, The Theory of moral sentiments, 6th edition.: Book 6: Chapter 3
(個人的な危険や苦痛に対する私達の感覚は、個人的な挑発に対するものと同様、それが不足することよりもむしろ過剰となることの方がずっと気分を害しがちである。臆病者の性格以上に軽蔑される性格はない。勇気をもって死に立ち向かい、最も恐ろしい危険の中でも冷静沈着さを維持する人間の性格以上に賞賛される性格はない。
私達は、苦痛や拷問さえも男らしさと断固たる態度で我慢する人間を尊敬し、そのような苦痛にへこたれ、やけになって無益に叫び、女々しく嘆く人間をほとんど評価しない。ちょっとした不利な出来事にも過敏に反応する気難しい気質は、自分を惨めにし、他人を不快にする。通常の人事の進行から起こる些細な傷害によっても、取るに足りない災害によっても平穏が乱されることは許さないが、世の中に蔓延(はびこ)る、生まれるべくして起こった道徳的な諸悪の中で、その価値を置き、双方とも少しずつ苦しむことで満足する穏やかな気質は、自らにとって喜ぶべきことであるし、すべての仲間に安らぎと心の穏やかさを与えるのである)―
アダム・スミス『道徳感情論』第6版:第6部:第3章
《ここでスミスが「男らしい」と「女らしい」という語法を用いていることに多少注意しておくべきかもしれない。明らかに、彼は、「勇気」「誇り」といった徳に「男性的」という形容詞を付加し、そこに自己規制の基底をみていた。あるいは、そこに「不動性」をみていた。恒常的なもの、不動なもの、もっといえば「確かなもの」をそこにみようとした。社会の中で相互に「見る/見られる」という相対性の中からでてくる評価や「世論」などというものを突き抜けたところに、スミスは、もっと「確かなもの」を発見しようとしていた。そこで彼が取り出したのが、古代的で「男性的な」美徳に裏付けられた、また神的存在という絶対者をヴェールの後ろに隠した「自己規制」であった。このときはじめて、人間は「確かな自己」を少なくとも感じ取ることができるはずなのである》(佐伯啓思『アダム・スミスの誤算』(PHP新書)、pp. 108)
時代状況が異なるスミスの認識が必ずしも今も通じるわけではない。詰まり、現代において「確かな自己」を如何に見出すのかという問題は、別の考察が必要となるということだ。否、そもそも「確かな自己」など存在し得ないと言うべきなのかもしれないが…
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