ハイエク『隷属への道』(14) 「法の支配」における<法>
ハイエクは、「社会政策の特定成果は不可知である方がよい」と言う。
国家は、一般的な状況に適用されるルールのみを制定すべきで、時間や場所の状況に依存するすべてのことは、個人の自由に任せなければならない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 96)
これが自由主義の極意であろう。自由主義においては、国家は競争の「場」を整備することを本分とすべきであって、個人間の競争への直接の介入は控えるべきだということである。
一般的なルール、つまり個別的な命令ではない本来の法は、詳細が予見できない条件において適用されるようなものでなければならず、それゆえ、それが特定の目的や人間にもたらす効果は、前もって知ることができないのである。(同、p. 97)
これが「法の支配」における<法>である。「法の支配」における<法>は、自由競争の公平な「場」をただ設定するだけのもので、具体的に何かを拘束したり制限したりしようとするものではない。この「漠(ばく)たる法」のお陰で競争の機会が平等化されるのである。
法律を制定する時点で特定の結果がすでにわかっているような場合、法律はただちに人々に使用される道具であることをやめ、立法者が人々に彼の目的を押しつける道具になってしまう。その時国家は、個人がその人格の十全な発展を進めるのを助けるような功利的組織であることをやめ、1つの「道徳的」制度となってしまうのだ。この場合の「道徳的」とは、不道徳の反対概念ではなく、すべての善悪判断基準を、それらが道徳的かきわめて不道徳的かを問わず、構成員に押しつける制度という意味であり、この意味ではナチス・ドイツや他の集産主義国家は「道徳的」であり、自由主義国家はそうではない。(同、p. 98)
※この「道徳的」は「道徳」と訳すべきだろう
集産主義国家は国家そのものが道徳であり、国民にその道徳を押し付けてくるということである。集産主義には個人の自由はなく、上からの規制、統制による画一化があるだけである。
計画化が広汎になればなるほど、よりいっそう、何が「公正」で「理に適う」ことなのかをもとに、法的規定を権限づけていかなければならなくなる。このことは、具体的なケースでの決定を、裁判官や関係当局者の自由裁量にますます任せていかなければならなくなる、ということを意味する。「法の支配」の衰退の歴史、あるいは「法治国家」の消滅の歴史は、この自由裁量という暖味な形式が立法や司法へとますます導入され、その結果、法や裁判は政策の道具でしかなくなってしまい、悪意性と不確実性が増大し、人々の尊敬を失っていった(同、pp. 99-100)
「法の支配」がないということは、日常の判断基準がないということであるから、否応なく「お上」の判断を仰がざるを得なくなる。法の支配下に置かれなければ、司法は恣意的判断を下し、立法は恣意的に法を定めることになる。
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