ハイエク『隷属への道』(15) 結果の平等

「形式法の支配」としての「法の支配」こそ、すなわち、政府当局によって特定の人々に与えられる法的特権の不在こそ、恣意的政治の対極である、「法の前における平等」を保証するものなのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 100

 自由主義とは、「法の支配」によって「機会の平等」を確保し、市場競争への政府の恣意的介入を防ぐものである。

表面的には逆説的に見えるのだが、「法の前における形式的平等」は、人々の物質的・実質的平等をめざすどんな意図的政策とも衝突し、両立不可能になるということであり、また、「分配の平等」というあの強固な理想をめざしたどんな政策も、「法の支配」の崩壊をもたらす(同、p. 101

 「結果の平等」は、競争による格差を否定するものであるから、競争の否定と言ってよい。競争が否定されるのであれば、競争の前提条件となる機会の平等は不要となり、「法の支配」も意味をなさなくなってしまう。

異なった人々に平等な結果を与えるためには、人々に異なった扱いをしなければならない。また、異なった人々に客観的に平等な機会を与えることは、主観的に見て平等な機会が与えられるということではない。だから、「法の支配」が経済的不平等を作り出すということは、否定することはできない。ただそういう不平等は、特定の人を特定の方法でそうしようと意図したわけではない、ということだけは言える。(同)

 結果を平等にしようとすれば、上位者を抑え、下位者を持ち上げることが必要となる。このことは活力あるものを抑え込むことになり、社会活力は失われてしまうだろう。また、頑張っても頑張らなくても結果が同じなのであれば、誰も頑張ろうとはしなくなってしまうに違いない。

「形式的な正義」や法の前における「形式的な平等」と、実体的な正義・平等に関する多様な理想を実現する試みとは両立しない(同、p. 102

ということは言わずもがなであろう。

計画化社会では「法の支配」は維持されえないということは、政府活動は合法的でなくなるとか、その社会は必ず無法社会となる、ということを言っているのではない。それが意味しているのは、政府による強制権力の使用が、もはやどんな制限も受けないようになり、前もって制定されたどんなルールにも縛られなくなる、ということである。もし法律が、ある委員会ないし当局に好きなことをしてもいいと決めたとしたら、それが行なうどんなことも合法的となる。しかし、その活動が「法の支配」に従っていないことは確かなことだ。つまり、政府に無制限の権力を与えることは、どんな恣意的なルールも合法的だとされうる、ということである。このようなやり方をしていけば、民主主義は、想像しうる最も完全な専制政治を作り上げることさえできるのである。(同、p. 105

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