ハイエク『隷属への道』(16) 貧しさの中の平等

「法の支配」は…立法の範囲を制限することを意味するものである。それは、立法を形式法として知られる種類の一般的なルールに限定するものであり、特定の人々を直接の目標とした立法や、そういう差別のために誰かに国家の強制権力を使用できるようにさせる立法を、不可能にするものである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 106

 先人たちの試行錯誤の結果、落ち着いた「秩序」を尊重しようとするのが「法の支配」である。一方、これを無視し為政者の恣意に任せようとするのが計画主義である。

「職業選択の自由」が、最善の世界においてすら限定を伴っていることは、疑いえない真実である。どれを選ぶか迷うほど多くの仕事の選択肢を持っているような人は、まずいるものではない。だが、重要なことは、いくばくかの選択の余地があるということ、また、誰かによって与えられたにせよ、自分が過去に選んだにせよ、1つの仕事に永続的に縛られるようなことはないということ、そして、耐えられなくなったり、気持が他へ向かうようになった時には、能力があり、いささかの犠牲を払う覚悟さえあれば、新たな職業への道がほとんど常に用意されていること、である。何にもまして状況を耐えがたくするのは、どんなに努力してもその状況を変えられないと知らされることである。たとえ人が、必要な犠牲を払う心の強さを持ちえなかったとしても、懸命に努力しさえすれば違う仕事に移れると知っているだけで、そうでなければ耐えがたい仕事も、我慢できるようになることが多いものだ。(同、p. 120

 私は職業の選択はただ自由であればよいとは思っていない。職業は自分の置かれた環境に大いに依存し、運命的な側面が強いことは否めない。勿論、運命に抗うことは可能である。が、自分の見聞きしたことの無い職業にまで選択肢を広げてしまっては選択の仕様がなくなってしまうだろう。自分の職業を社会が決めるのではなく、複数の選択肢があることは有りがたいことである。また、自分の就いた職業に縛られるのでなく、転職することが許された社会も尊いと言えるだろう。要は程度問題ということだ。

社会主義的な見解を持って、中央集権的計画の問題を真剣に研究してきた経済学者のかなり多くが、今では単に、計画社会は競争体制と同等の効率を持つだろう、と希望することで満足するようにさえなっている。彼らが計画化を主張するのは、もはやそれがよりすぐれた生産性を持っているからではなく、より正義にかなった、公平な富の分配を確実にさせてくれるからだ、ということになっている。実際、この「富の分配」こそが、計画化を強く主張しうる唯一の論拠である。(同、pp. 125-126

 20世紀の壮大なる実験によって明らかとなったことは、生産性という点においては、社会主義は落第だということである。「結果の平等」を実践すれば、弥(いや)増しに増して社会活力が低下してしまうのである。平等という正義が貫かれても、結果は「貧しさの中の平等」でしかない。

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