オークショット「合理的行動」(11) ケインズの反省

J・M・ケインズは言う。

《われわれの一般的な心の状態の原因でもあり、またその結果として、われわれは、われわれ自身の人間性をも含めて、人間の本性というものを完全に誤解していた。われわれが人間の本性に合理性を帰したために、判断ばかりか、感情の浅薄さをも招いたのである。知性の面で、われわれはフロイト主義者以前であったというに留まらない。われわれは先人たちの有していたものを、代りのものと取り替えないまま、失ってしまった》(「若き日の信条」:『ケインズ全集10人物評伝』(東洋経済新報社)大野忠男訳、p. 584


 人間が営々と築いてきた文化文明は、決して<合理的>なものではない。不合理なものが綯(な)い交ぜになった文化であり文明なのである。だから、ただ不合理だからと言って削ぎ落してしまえば、文化文明もやせ細ってしまわざるを得ないのである。

《私は今でも、他人の感情と行動(そしてまた、疑いもなく私自身のそれ)に、非現実的な合理性を認めようとする性癖から抜け切れないでいる。「正常な」ものについてのこの不条理な考えの現われとして、ささやかだが、途方もなくはかげた1つの例がある。すなわち、異議を申し立てるという衝動がそれであって、「正常な」ものについての私の前提が満たされていないと、『タイムズ』紙に手紙を寄せて、ロンドン市庁舎で会合を開き、何かの基金に寄付をしたいという衝動なのである。あたかも声を大にして叫びさえすれば、首尾よく訴えることのできる何かの権威なり基準なりが現に存在するかのように、私は振舞うのだ。――おそらく、お祈りの効能への、遺伝的な信仰の名残といえよう》(同)

 <実践知>を伴わず、<技術知>が現実を踏まえぬ観念の世界の中で暴走してしまうということである。

私は人間性に関するこの偽の合理的な見解が、判断ばかりか感情においても軽薄さ、皮相さ、を招いたと言った。ムーアの「理想」に関する章には、あるカテゴリーの、価値ある感情全体がまったく脱落していたように私には思われる。人間の本性を合理的なものと見なしたことは、今にして思えば、人間性を豊かにするどころか、むしろ不毛なものにしたようである。それはある強力で価値ある、感情の源泉を無視していた。自発的な、不合理な、人間本性の噴出のあるものには、われわれの図式主義とは無縁な、ある種の価値がありうる。邪悪な振舞と結びついた感情の中にさえ、価値を有するものがありうるのである。そうして、自発的な、爆発的な、邪悪ですらある衝動から生じる価値に加えて、われわれの知っている対象のほかにも、さらに価値ある観照と交わりとの対象が多数存在する。――すなわち、共同社会の問の生活の秩序と範型、それらのものが呼び起こす感情、などにかかわりを持つ対象がそれである。(「若き日の信条」:『ケインズ全集10人物評伝』(東洋経済新報社)大野忠男訳、pp. 584-585

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