オークショット「自由の政治経済学」(1)「欠乏からの自由」
自由とは何か、この抽象的に提起された問いによって、ただ詭弁(きべん)という星のみが照らす果てしない屁理屈の夜にむかってドアが開け放たれるのだ。牢獄に生まれた人のように、我々はかつて経験したことのない何か(例えば欠乏からの自由)を夢み、その夢を我々の政治の基礎とするようにせきたてられる。(オークショット「自由の政治経済学」名和田是彦訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 44)
「自由とは何か」を考えること自体に問題があるのではない。問題なのは、この問いに対する解答がどんどん拡張され、詭弁塗(まみ)れになってきていることである。当たり前だが、「表現の自由」といった我々の日常に関わる「自由」と、「欠乏からの自由」などという一体どこに終着点があるのか分からない抽象的な「自由」とは分けて考える必要がある。
因(ちな)みに、「欠乏からの自由」という言葉は、ルーズベルトの一般教書演説の中に出て来る。
In the future
days, which we seek to make secure, we look forward to a world founded upon
four essential human freedoms.
The first is freedom
of speech and expression—everywhere in the world.
The second is
freedom of every person to worship God in his own way—everywhere in the world.
The third is
freedom from want—which, translated into world terms, means economic
understandings which will secure to every nation a healthy peacetime life for
its inhabitants—everywhere in the world.
The fourth is
freedom from fear—which, translated into world terms, means a world-wide
reduction of armaments to such a point and in such a thorough fashion that no
nation will be in a position to commit an act of physical aggression against
any neighbor—anywhere in the world.
--Franklin D. Roosevelt, the State of the Union Address to the Congress, January 6, 1941
私達が強固にしようとする未来の日々において、私達は4つの本質的な人間の自由を基盤とする世界を期待します。
1つ目は、世界のあらゆる場所における、言論と表現の自由です。
2つ目は、世界のあらゆる場所における、すべての人が自分自身のやり方で神を崇拝する自由です。
3つ目は、世界のあらゆる場所における、欠乏からの自由です。これは、世間の用語に訳すと、あらゆる国が住民のために健全な平時の生活を確保する経済的理解を意味します。
4つ目は、世界のあらゆる場所における、恐怖からの自由です。これは、世間の用語に訳すと、どの国も、世界のどこの隣人に対しても物理的侵略行為を行う立場にならないような、徹底した方法で、世界的に軍備を縮小することを意味します。
――フランクリン・D・ルーズベルト「1941年1月6日の連邦議会一般教書演説」
この演説には2つの<自由>が混在している。「言論と表現の自由」「信仰の自由」は<積極的自由>、「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」は<消極的自由>と呼ばれている。
《自由という言葉(わたくしはfreedomもlibertyも同じ意味で用いる)の政治的な意味の第1は――わたくしはこれを「消極的」negativeな意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。その問いとはつまり、「主体――個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。第2の意味――これをわたくしは「積極的」positiveな意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、まただれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている》(アイザイア・バーリン『自由論』(みすず書房)生松敬三訳、pp. 303-304)
コメント
コメントを投稿