オークショット「自由の政治経済学」(2) 「自由とは必然性の洞察である」

我々は「積極的」自由と「消極的」自由、「古い」自由と「新しい」自由を区別するように教えられ、また「社会的」自由、「政治的」自由、「市民的」自由、「経済的」自由、「個人的」自由を区別するように教えられる。我々はまた、「自由とは必然性の洞察である」と教えられ、更には重要なのは内心の自由であってこれは平等及び力と同一視される、と教えられる。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 44

 「自由とは必然性の洞察である」と書いたのは、共産主義運動の理論的支柱フリードリヒ・エンゲルスであった。

《ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」

自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。これは、外的自然の法則にも、また人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則にも、そのどちらにもあてはまることである。――この2部類の法則は、せいぜいわれわれの観念のなかでだけたがいに分離できるのであって、現実には分離できないものである。したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない。だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。

他方、無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである。だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。

したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。動物界から分離したばかりの最初の人間は、すべての本質的な点で動物そのものと同じように不自由であった。しかし、あらゆる文化上の進歩は、どれも自由への歩みであった》(エンゲルス「反デューリング論」村田陽一訳:『マルクス・エンゲルス全集20』(大月書店)、pp. 118-119

 残念ながら、私にはこれが「屁理屈」だと言えるまでの見識は無いけれども、屁理屈であろうとなかろうと、この文章が多くの読者を「煙(けむ)に巻」いているであろうことは想像に難くない。少なくとも私には「進歩史観」の正当化のようにしか思われない。

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