オークショット「自由の政治経済学」(3) 権力集中の不在

彼(=ヘンリー・サイモンズ)が探究しようとした自由は抽象物でも夢でもない。彼が自由主義者であるのは、自由の抽象的定義から始めるからではなく、それを享受してきた人々が(一定の正確な特徴のゆえに)自由な生活様式と呼び親しんでいるところの生活様式を彼が実際に享受してきた(また他の人々が享受しているのを見てきた)からであり、また彼がその生活様式を良きものと考えてきたからである。探究の目的は、語の定義ではなく、我々の享受しているものの秘密を発見すること、それに敵対的なものを認識すること、そしてそれをより完全に享受できる場と方法を見分けることなのである。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 44

 サイモンズは、理論家ではなく実践家であったということだ。

自由は、教会と国家との分離から生じるのではないし、また法の支配から生じるのでもなく、私有財産から生じるのでもないし、議会制的統治からも、人身保護令状から、も、はたまた司法の独立からも、およそ我々の社会の特徴をなす何千という他の装置や制度のいずれからも生ずるのではない。それは、これらのそれぞれが意味し表現しているもの、即(すなわ)ち、我々の社会における圧倒的な権力の集中の不在から生ずるのだ。これこそが我々の自由のもっとも普遍的な条件であって、他のすべての条件はこの中に含まれているとみることができる。(同、p. 45

 詰まり、the absence from our society of overwhelming concentration of power(圧倒的な権力集中が我々の社会に存在しないこと)が重要なのである。

我々の社会の政治は、過去、現在及び未来がそれぞれ発言権を持つ会話である。その中のひとつが時として優勢になるのが適切であることもあるが、永続的に支配することはなく、かかるがゆえに我々は自由なのである。(同、p. 46

 過去の不在は、現在の過剰となって、独善に陥りがちである。現在の不在は、地に足の着かぬ空想になりがちだ。未来の不在は、自分勝手になり、過去の財産を食い潰しかねない。過去・現在・未来が平衡を保つことが肝要なのであり、これこそが、抑制の利いた、本来あるべき<自由>なのだと考えられるということである。

また、我々のあいだでは、我々の社会を構成する多くの利害や利益組織すべてのあいだで権力が分散している。我々は利害の多様性を抑圧するおそれを感じないし、そのようなことを求めもしない。しかし、諸利害のあいだの権力の分散が不完全である限り我々の自由も不完全であると考えるし、何であれひとつの利害ないし諸利害の結合体が異常に大きな権力を獲得したとすれば、それがたとえ多数者の利害であっても、自由は脅かされていると考える。(同)

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