オークショット「自由の政治経済学」(5) 法の支配
法の支配による政府(即ち、統治者と被治者をともに拘束する確固としたルールを規定しておくという方法による強制手段を採用している政府)は、それ自体が、それがその促進のためにこそ存在しているところの権力の分散の象徴であり(かと言ってこの政府はなんら強さを失なっていない)、それゆえに自由な社会にとって格別に適しているのである。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 48)
<法の支配>とは、議会で制定された法(制定法)に従う「法治主義」とは異なる。「法の支配」とは、被統治者のみならず統治者もより高次の法によって拘束されるとする考え方である。より高次の法とは、歴史的に社会秩序を構成してきた法(common law)のことである。あっさり言えば、歴史伝統に棹差そうとするのが<法の支配>なのである。
この方法は権力行使において極めて経済的な統治方法である。それは過去と現在との、また統治者と被治者との協力関係を含んでおり、恣意(しい)のはいりこむ余地のないものである。それは危険な権力の集中への抵抗の伝統を助長するものであり、いかに破壊的ないかなる無差別攻撃よりもはるかに効果的である。それは、効果的に、しかし世の中の大きな流れをとめてしまうことなく、統御を行う。それは、社会がその政府に期待してもよい、限定された、だが必要なサービスはどのようなものかということを実際に定義し、我々が政府に対して無駄で危険な期待をしないようにする。(同)
過去のやり方を受け継ぐという意味で「前例主義」も一見、歴史伝統に棹差しているかのようである。が、時は流れ行くものであり、<前例>をただ踏襲するだけでは時代に取り残されてしまいかねない。<前例>に拘(こだわ)って、ただ頑(かたく)なに旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)するのではなく、時代にそぐわなくなったところは時代に合わせ変更するという柔軟性が必要だということである。本当の意味で歴史伝統に棹差すとは、過去の英知を現在に合わせて日々更新することでなければならない。詰まりは、保守と保全の平衡が大切になるのである。
自由全体を豊富化し安定的なものにしつつ我々の享受する自由を構成している多くの種類の自由の中で、我々は2つの自由が重要だと久しく認めてきた。そのひとつは結社の自由であり、もうひとつは私有財産を所有する権利において享受されている自由である。第3の種類の自由がこれら2つと並べられることがよくある。言論の自由がそれである。(同、pp. 48-49)
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