オークショット「自由の政治経済学」(6) ベルクソン

社会は、その道標を、あらかじめ認識された目的ではなく、継続性の原理(それは過去、現在、未来のあいだの権力の分散を意味する)及び合意の原理(それは現在のさまざまな正統な利害のあいだの権力の分散を意味する)に見出すことになろう。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 54)

 <権力分散>は、縦軸と横軸がある。即ち、過去・現在・未来に跨(またが)る「時間軸」と、現代の社会に広がる「空間軸」である。過去・現在・未来のいずれにも偏向せず、それぞれを尊重することによって時は淀むことなく流れる。個人にあっては、「意識の流れ」ということになろうなどと考えたところで、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンがちょっと気になった。

《人々は一致して、時間を、空間とは異なる、しかし空間と同じく等質的な、無規定な境域とみなしている。こうして、等質的なものは、それを充たすものが共在であるがそれとも継起であるかによって、二重の形式を帯びることになろう》(ベルクソン「時間と自由」中村雄二郎訳:『世界思想教養全集23』(河出書房新社)、p. 66

《まったく純粋な持続とは、自我が生きることに身をまかせ、現状の状態と先行の諸状態との問に分離を設けることをさしひかえるとき、われわれの意識状態の継起がとるかたちである》(同、p. 67

 さて、何となくオークショットがベルクソンを下地にしているような気がして、ベルクソンの言葉をちょっと引用してみた。が、ここでベルクソン論を語るだけの準備が私にはないし、話が逸れてしまいそうなので、私の講釈は抜きにして話を先に進めよう。

我々は、我々による現在の願望の追求によって過ぎ去りしものへの共感が失われることがないがゆえに、自分たちのことを自由であるというのである。賢人のごとく我々は我々の過去と和解して在るのである。(オークショット、同)

 この部分は難解である。解説しようにも私の手には負えそうにもないので、参考までに再びベルクソンを引用しておきたいと思う。

《意識は、もう過去のものになったあれこれの経験に関わる記憶力によって、過去をいっそうよく保持し、それを現在と有機的に組織して、さらに豊かで新しい決心を行えるわけだが、しかしそればかりではない。この意識は、より強度に満ちた生を生きながら、直近の経験の記憶力によって、外的な瞬間をいっそう多く自分の現在の持続へと凝縮しつつ、行為を創造する力をますますそなえていく。そして、この行為が含む非決定性は、物質においてはいくらでも望むだけ多くの瞬間の上に繰り広げられるはずだから、それに応じて、必然性の網をいっそう容易にくぐり抜けていくことだろう。こうして、自由は、時間において考えてみても、空間において考察してみても、常に必然性の中に深い根を下ろし、必然性と密接に組織されていると見られる。精神は物質から知覚を借り受けて、それを自分の糧とする。

 そして、知覚を改めて運動の形で物質に与え返すのだが、そこにはもう精神の自由が刻まれているのである》(ベルクソン『物質と記憶』(講談社学術文庫)杉山直樹訳、pp. 356-357



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