オークショット「自由の政治経済学」(7) 自由主義的選好
少しでも動くことを頑として拒否する態度、人民投票的民主主義にみられるようなまったくのプラグマティズム(実用主義)、伝統とは「前回ししたことをすることにすぎないという短絡した認識、そして一歩一歩訓練を積むよりも近道をしたがる選好、こうしたもののいずれにも我々は奴隷状態の徴表を見出すものである。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 54)
このような選好は、反自由主義そのものである。
また我々は、遠くはなれた予測もできないような未来のために現在を犠牲に供(きょう)することも、うつろいゆく現在のために間近の予見しうる未来を犠牲に供することも、したくないのであり、短見にも陥らず、かといってあまりに先を見すぎもしないがゆえに、自分たちを自由であると考える。(同、pp. 54-55)
「進歩史観」に染まり、実際は非現実的でしかない「夢物語」を実現可能であるかのごとくに思い、今ある果実を手放したり、近い将来得られるであろう果実を放棄するなどということは全くもって馬鹿げたことである。
更にまた、見解の自発的一致を背景としたゆっくりとした小さな変化への選好、反対派を抑圧することなく分裂に抵抗できる能力、及び社会が速くあるいは遠くに動くことよりも社会がともに動くことのほうが重要であるという認識に、我々は自由を見出す。(同、p. 55)
これらはまさに<自由主義>的性向である。無邪気にただ夢を追い掛けて良しとするのではなく、現実を地道に積み重ねていくことを大事にするという保守的性向である。
我々は我々の決定が誤りのないものだなどとは主張しない。実際、完成ということについての客観的ないし絶対的な基準が存在しない以上、不可謬(ふかびゅう)ということはなんら意味をもたない。我々が必要としているものは、変化の原理と同一性の原理のうちに見出されるのであって、それ以上のものを我々に提示する人々、つまり、多大の犠牲を我々に要求する人々、及び我々に英雄的性格を課したがる人々を、我々は疑ってかかる。(同、p. 55)
<変化の原理と同一性の原理>とだけ書かれても具体的にどういうことなのか、浅学の私には分からない。が、恐らく<変化の原理と同一性の原理>が現実世界に属するものであるのに対し、<それ以上のもの>とは現実を越えた謂わば「空想世界」に属するものであろうということだけは分かる。詰まり、オークショットは、地に足の着かぬ抽象論を弄(もてあそ)ぶ人達を批判したいのだろうと思われるのである。
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