オークショット「自由の政治経済学」(8)【最終】 漸進的改革

政治における自由主義者の営みは既に種のまかれたところを耕すこと、そして自由を達成する既に知られている方法だけでは確保しえないような新たに提案された自由を追求する不毛を避けることにあると思う。(オークショット「自由の政治経済学」、p. 55)

 「種蒔き、耕し、収穫する」という従前の方式が「完璧」なのではない。だから、改良すべきは改良すればよい。が、それはあくまでも既存のやり方を元にした改良であって、「素晴らしき世界」へ我々を誘(いざな)うために、これを全否定するような「夢物語」は御免被りたいということである。

政治というものは何らかの新しい社会を想像することでも、既存の社会を抽象的な理想に合致させるべく改造することでもなく、我々の現存の社会からほのかに聞えてくる要求をより充分に実現するために今何をなす必要があるのかということを認識することであろう。(同)

 これはまさしく保守思想である。左翼思想家が提示するような「うまい話」は「机上の空論」でしかなく、こんな現実化するかしないかわからない話に乗っかって、一足飛びに一攫千金を狙うような、失敗すれば全てがおじゃんになってしまうような賭けに出る必要は毫(ごう)もなく、現実に手に入れられる果実をしっかり実らせて手に入れることの方を優先すべきだということである。

政治の正しい行いには、耕されるべき社会の性格についての深い知識、その現状についての明瞭な認識、及び立法的改革のプログラムの正確な定式化が、含まれる。(同)

 何事も完璧なものなどないのであるから、現状に何某(なにがし)かの問題があるのはむしろ当然のことである。が、問題があるからといって、社会体制を丸ごと変えてしおうというのは軽率であり傲慢である。果たして体制を丸ごと変えてしまわねばならないような問題とは一体どのようものなのか。

今や権力を振っている辛抱のない悪ずれした世代が、眼の焦点を遠くの地平線にあわせ、外国製のはったりに心をにごらせながら、過去との協同関係を解消し、自由だけを粗末に扱っている。(同、p. 56

 社会体制を丸ごと変えることは、頭の中では出来たとしても、現実的には出来ない。急激な変革は、人々を振り回し、社会秩序を掻き乱すだけである。

 我々に出来ること、そして、やるべきことは、修正を施すということである。たとえ僅かな修正であっても、これを積み重ねていくことで、最後には大きな修正となる。詰まり、望まれるのは、漸進(ぜんしん)的な改革である。

独占がなんら存在しないところでは(例えば教育において)独占をあえてつくりたがらない傾向、政府が独占を引き継いだときもこれがなるべく政府権力の増大をきたさないようにこの独占を減殺し単純化しようとする性向、この独占体のなかでサンディカリズムの潮流が登場しないような強力な法的措置を採ること、そしてこれらすべての提案の政府権力への効果はその「社会」への効果と同じくらい重要であるという認識、など(同、p. 65

が必要なのである。【了】

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