オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(23)良心

Hobbes, it is said, found support for this position in the observation that the endeavour of a man to preserve his own nature has the approval of conscience, and the endeavour to do more than this is disapproved by conscience: the feeling of guiltlessness and of guilt attach themselves respectively to each of these endeavours. Thus, activity which springs from fear of shameful death and is designed to mitigate that fear alone has the approval of conscience and is obligatory. -- Michael Oakeshott, The moral life in the writings of Thomas Hobbes: FOUR

(ホッブズは、人間が自らの本性を保持する努力は良心の承認を受け、それ以上のことをする努力は良心に反対される、すなわち、これらの努力のそれぞれには、潔白感と罪悪感が伴うという観察からこの立場を支持したとされている。したがって、恥ずべき死への恐怖から生まれ、その恐怖を和らげることを目的とした活動だけが、良心の承認を得て、義務づけられるのである)

 ホッブズが言うところのconscienceとはどのようなものを意味するのであろうか。そもそもconscienceに「良心」という訳語が当てられていることが誤解の素なのであるのだが、conscienceという語自体には、実は、「良い」という価値判断は含まれてはいない。

conscience: the part of your mind that tells you whether your actions are right or wrong(自らの行動が正しいか正しくないかを教えてくれる心の部分)-– Oxford Learner’s Dictionaries

 「良心」という訳語は、『孟子』からとったものとされる。

人に存するものと雖(て)も、豈(いか)で仁義の心なからんや。そのひとの、その良心を放つ所以(わけ)のものは、亦(また猶(な)お斧(おの)斤(まさかり)の、木におけるがごとし。旦旦(ひごと)にしてこれを伐(き)らば、いかで美と為るぺけんや。その日夜の息(やしな)うところとなり、平旦(おだやか)なる気あるも、その好悪が人と相い近きもの幾(ほとん)ど希(まれ)なるは、その旦(ひる)昼(ま)の為(おこ)なうところ、有(ま)たこれを桔(みだ)し亡(うしな)わしむればなり。これを梧して反覆すれば、その夜気も〔良心を〕存せしむるに足らず。夜気も存せしむるに足らざれば、そのひとの禽獣(きんじゅう)を違(さ)ることも遠からず。人はその禽獣のごときを見れば、未(いま)だ嘗(かつ)て才(もちまえ)あらじと以為(おも)わんも、これ豈(いか)で人の情(実)ならんや。(『孟子』告子篇第6148

(人がその本来の善性を失ってゆくありさまは、ちょうど斧や斤で木を伐ってゆくようなもの、自然な芽生えのあるように、良心のおのずからな目ざめもあるのだが、それさえ「桔亡(こうぼう)」すなわち乱し失わせてゆくのでは、結局、牛山(ぎゅうざん)のはげ山と同じことで、ひとかけらの良心もない禽獣のような人間になってしまう。その禽獣のような様子をみると、もともと人としてのもちまえ(才)などはなかったようでもあるが、「これ豈(あ)に人の情ならんや。」人であるからには、やはり善性があったのだ、という。

 夜気(やき)というのは、昼間の利害に走る俗心と対照して、夜間の平静な気象をいう。その平静心までも、良心をよびさますことができないようになっては、もうだめだというのである。
(金谷治『新訂 中国古典選 第5巻 孟子』(朝日出版社)、pp. 379-380)

 小林秀雄は、次のように解説する。

《思想の高邁(こうまい)を是認するものは思想であり、行爲の卑劣殘酷に堪へないものは感情である。良心は思想を持たぬが、或る感受性を持つ。(中略)私達は皆ひそかにひとり惱むのだ。それも、惱むとは、自分を審(つまびら)くものは自分だといふ厄介な意識そのものだからだ。公然と惱む事の出來る者は、僞善者だけであらう。良心の持つ內的な一種の感受性を、孟子は、「心の官」と呼んだ。これが、生きるといふ根抵的な理由と結ばれてゐるなら、これを惡と考へるわけには行かないので、彼は「性善」の考へに達したのである》(「考へるヒント」:『新訂 小林秀雄全集』(新潮社)第12巻、p. 61

 デカルトのように、心の中の不確かなものを排除していって最後に残ったものが、恐らくconscienceというものなのであろう。そして人間はconscienceという根源的な心の存在なしに生きられないという意味で、conscienceは肯定されるべきものなのである。よって、conscienceを「良心」と訳すことは強(あなが)ち間違ってはいないわけである。

《良心は、はっきりと命令もしないし、强制もしまい。本居宣長が、見破ってゐたやうに、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考へるたゞ一つの確實(かくじつ)な手がかりとして、內的に經驗される人間の「實情」といふものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢(あ)へて「はかなく、女々しき」ものと呼んだのか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社會(しゃかい)化された力となる事が出來ないからだ。社會の通念の力と結び、男らしい正義面など出來ないからだ。「物のあはれを知る心」は、その日常的な力で生きてゐれば、充分な何かである。彼の有名な「物のあはれの說」は、單なる文學說でも、美學でもない。それは寧(むし)ろ良心の說と呼んでいゝものである》(同、p. 60

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