オークショット「政治における合理主義」訳者解説(10)現実から乖離した合理主義

複雑な営みを実際にし、それに成功していながら、自己解釈としては、その成功の理由を単純な一要素のせいにする、ということは、ほとんどすべての成功物語とくに自伝の類に共通することであるが、これはもっと普遍的に、人間の「行為」一般について言えることなのである。

人は、意識のレベルではごく簡単なことしか意図的に指示していないのに、実際の身体(行態)は、「身についた」すべての技芸と文化的趣味(および生物学的メカニズム)を発揮しながら、極めて複雑な調整の後にその意図を達成するのである。

ここで意図または意識と身体の運動との間を媒介する多重の層をなす過程と、そこで機能しているものを意識の中から除外する場合に限って、人または意識的理性はある種の全能感にひたれるにすぎない。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、pp. 401-402)

 要は、現実は、人間が頭の中で考えるほど単純ではないということである。

 保守ということが、普遍的なタームによる「合理主義」的な正当化を受けずその意味で偶然的だが、たまたま自分が持っている(理解しうる、慣れ親しんでいる、その伝統の中にいる、……)要素、それも長い時間を経て幾多の世代がその上に経験と改善の層を積み重ねてきた多重の構造体について、その成果もだがむしろそれ以上にそれを生み出してきた営み自体に、それに必然的に伴う価値観の受容とともに参加し、またそうすることを楽しむこと、という風に一般化できるなら、これはほとんどすべての人間的、文化的活動を包摂してしまうだろう。(同、p. 402

 一文に複数の要素を散りばめた長文となり、何が言いたいのかよく分からない悪文になってしまっている。

「合理的」な行動は…意図的に受容された何らかのルール・原理・規範によって規制されず、かつある定式化された原理を素直に遵守(じゅんしゅ)することからは生じないような行動に永久的に反対する。さらに、それは伝統・慣習・行為習慣という吟味されていない権威から生じる行動を除去する―オークショット「合理的行動」:『政治における合理主義』、p. 96

 現実の社会は、意図されたものではなく、偶然の産物である。合理主義者は、これを非合理だと排除する。が、それと同時に現実から乖離(かいり)する。合理主義者は、観念の世界に遊ぶのである。

 が、人々は普通、こんな賢(さか)しらなことは考えない。現実をあるがままに受け止め、これを最大限に利用し、楽しむ。それが現実を生きるということである。

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