オークショット「政治における合理主義」訳者解説(11)【最終回】難しく書こうとする虚勢

その中に、現代の科学哲学が語る科学の営みの描像自体も含まれることになることは、言うまでもない。その意味で我々はすべて保守的なのだし、またそのような人間の性向に、これら文化的エンティティーの存在とそれを生み出す人間活動の全体が依存しているのである。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、pp. 401-402)

 <描像>(=特に、物理学などで、ある複雑な現象や概念の本質的な仕組みをとらえ、多くの人がそれを既存の知識で容易に思い描けるようにしたもの)とか、<エンティティー>(entity)自体が「存在」という意味を持つものだから、<文化的エンティティーの存在>(=文化的存在の存在)では意識低い系の私には訳が分からない。

たとえば「大学にふさわしい『政治学』教育について」で語られる、職業教育と区別された意味での説明的、学問的な政治学は、(少なくともイギリスの伝統の下では)哲学と歴史学の伝統に与(くみ)するものしかありえない、という主張や、「政治教育」における、イギリス的な一般教育の擁護論、そしてこれらの背後にある「歴史家の営為」で語られる学問観、などは直ちに我々にとって賛同できるもの、そうせざるをえない説得力をもったものとはみなされないであろう。(同、p. 402

 直ちに賛同出来ないのは、オークショットの主張が直ちに理解できるようなものではないからである。難解なオークショットの論考を直ちに理解することだけでも相当困難があるだろうし、直ちに賛同するか否かが問われるような話でもない。ましてや、<そう(=賛同)せざるをえない説得力>とは具体的にどういったものを指すのか想像することさえ難しい。

 嶋津氏は、

これは多分、これらの主張の一部が、イギリスの伝統の中にいる読者のために書かれているせいであり、部分的には当然のことなのである。(同、pp. 402-403

と言うのだが、英国の伝統が分からないから、オークショットの主張が分からないというわけではないだろう。

《「職業」教育と大学教育の相違は「言葉」の性格の違いにある。現代政治の用語を教授することは政治の「職業」教育の本質をなす。政治用語を用いる技術、そこに示される思考法に熟知することは政治活動の本質をなすからである。

しかし、これは、学部学生に授けられるべき大学教育の特徴としての「言葉」と同じものではない。この「言葉」――歴史学、哲学、科学、数学の「言葉」――は、すべて説明言語なのであり、それぞれ固有の説明の仕方をあらわしている。

しかし、政治用語は説明言語ではない。それは、詩や道徳の言語でないのと同じである。物事の特殊「政治的」説明など存在しない。「政治」は、或る信念や意見を持ち、或る判断を下し、或る行動を行ない、説明的ではなく実践的考慮から思考することを意味する》(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 387

 政治用語は説明言語ではない。したがって、政治を考えるためには、政治に現れる、歴史学、哲学、科学などの「言葉」を身に付ける必要がある。それは、職業的「政治」教育とは異なるということである。

これは、中世以来のイギリスの伝統である普遍の存在を認めない、実念論に対置される唯名論と、その前提にある、具体的存在者についての形而上学である。その結果、すべて普遍的、抽象的なものは、その名のみがあるものとして扱われ、普遍を扱うことが一見明らかな学を(たとえば数学も?)、場合によっては、その実体を、(数学者達の)伝統という、それ自体は具体的な存在者によって基礎づける、ということになるのだろうか……。(嶋津、同、p. 403

 難しい用語をたくさんご存じなのは分かるが、これでは、<賛同できるもの、そうせざるをえない説得力をもったものとはみなされない>のではなかろうか。【了】

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