オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」(22)【最終回】学問的研究とは

 学問的研究は、ある行為が現実の文脈から取り出され、説明的思考法にふさわしい状態におかれたときに生じる。(オークショット「大学にふさわしい『政治学』教育について」、p. 391)

 前々回扱った「活学」とオークショットの言う<学問的研究>とは位相が異なる話に違いない。<学問的研究>は、現実の文脈から切り離されて成立するのに対し、「活学」は、学問に対する積極性が問題なのであって、むしろ現実にいかに活用できるのかが問われるのである。オークショットの論考を解説するという意味では、「活学」の話はズレてしまっているのだろう。が、オークショットの意見に触れて、私が何を思ったのかという意味で「活学」の話はこのまま置いておきたいと思う。

人類の過去は広範囲であり、芸術や文学、法や習俗、様々な出来事、諸々の思想、発明や工夫にわたっている。そしてこれらが学問的研究の対象なのである。物理的化学的実験、数の性質、様々な国民の習慣や風俗、地球の構造と構成、道徳的諸観念は我々の好き嫌いから切り離して、実際の目的に役立つかどうかという観点とは別の観点から研究されうる。我々の必要を満たす稀少財の研究さえ、公的または私的政策を離れて行ないうる。

確かに、それぞれの事柄は単なる説明以上の別の誘惑を伴っているが、そした誘惑は容易に抑えうるであろう。しかしながら、(我々や近隣国民の)現在の政治に関してはそうした誘惑を切りすてることはむずかしい。したがってそれは学問的説明のための素材として必ずしも実り多いものではない。(同、pp. 391-392

 オークショットが言っているのは、現実に拘(こだわ)れば、知識を伝授する「職業」教育的なものに成らざるを得ないが、大学における学問的研究は、現実から離れて、哲学的追求を行うものであり、そのために必要な、「言語」と「思考様式」を習得することが必要だということなのではないかと思われる。

大部分の人にとって、「職業的」用語を用いて政治に関わりそれについて考える楽しみに背を向けることは難しいし、規範的命令と学問的説明はあまりにも混同されやすい。またお好みの政治的立場を支持するために哲学を無視したり、自ら歴史に学ばずに、歴史家の結論を便宜利用する誘惑には抗しがたい。

政治学において、説明の言葉を用いることを学ぶための「文献」や「教科書」を得ることは極めて難しい。なぜならば、学ばれるべき素材の言い回しが、その素材が学ばれる仕方を押しつけようとするからである。にもかかわらず、もし大学で何がなされるべきかを我々が認識するならば、政治学における難しさはそれ自体やりがいのあるものとなろう。すなわち、もし我々が、為すべきことは政治ではなく、政治を通して歴史と哲学の「言葉」を用いる仕方を教授し、それと他の表現方法との区別を教えることである、と認識するならば。(同、p. 392)【了】

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