オークショット「政治における合理主義」訳者解説(4)牽強付会の解説

ホッブズの科学主義(というより幾何学モデル)というスタイルとそこで捉えられる人間像とは密接な相関関係にあり、その意味では(ある形で理解された)科学のもつ道徳(への接近における方法論)的含意をまともに受け取るとともに、人間の「誇り」または「虚栄心」の否定と、その崇高さよりも矮小性に依拠しようとする傾向の点では、エピクロス派以来の伝統の中にホッブズを位置づけようとするのが、オークショットの立場である。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 396)

a more important omission is, I think, the failure to link Hobbes’s political philosophy on to a different tradition in political philosophy, the Epicurean tradition. Hobbes’s writings, in many respects, belong to that recrudescence of Epicurean philosophy which was so important in the intellectual life of the sixteenth and early seventeenth centuries. The biographical evidence for connecting Hobbes with the neo-Epicurean movement is conclusive; and whatever the striking differences between Hobbes’s ethical doctrines and those of Epicurus, his completely different conception of the summum bonum upon which Dr. Strauss remarks (p. 134) and which had been remarked upon before by Guyau, La Morale d’Epicure (p. 195), we ought not to allow them to obscure the great similarity. Considering the kind of works in which the views of Epicurus are handed down, we could not expect connected discussions, and one at least of Hobbes’s achievements was to construct a comprehensive system where before there were only scattered aphorisms. -- Mickel Oakeshott, Hobbes on Civil Association, 3. Dr. Leo Strauss On Hobbes

(さらに重要な不作為は、思うに、ホッブズの政治哲学を政治哲学の異なった伝統である快楽主義の伝統と結び付けなかったことである。ホッブズの著作は、多くの点で、16世紀から17世紀初頭の知的生活において非常に重要だった快楽主義哲学のあの再燃現象に属する。ホッブズを新快楽主義運動と結び付ける伝記的証拠は決定的である。ホッブズの倫理的教義と快楽主義の教義との間の著しい相違、シュトラウス博士が述べ(p. 134)、ギュイヨー『快楽主義の道徳』(p. 195)によって以前、批評されていた彼の全く異なる「最高善」の概念によって、大きな類似点が見えなくなることは許されない。快楽主義の見解がどのような著作で伝えられているかを考えると、筋の通った議論は期待できないし、ホッブズの功績の少なくとも1つは、それまで散在する格言しかなかったところに、包括的な体系を構築したことであった)―オークショット『市民連合に関するホッブズ』3. ホッブズに関するレオ・シュトラウス博士

 オークショットの立場を非合理主義と呼ぶのは若干ミスリーディングである。彼の活動は、あえて言うなら理性批判という方がまだよいかもしれない。(同、p. 397

 この<非合理主義>という言葉は唐突である。これは、合理主義者による偏った言葉遣いである。公平に言うなら、『政治における合理主義』で展開された主張からも分かるように、合理主義を懐疑するのがオークショットの立場である。詰まり、合理主義に安易に乗っかる風潮に異議を唱えたのがオークショットだったということである。

 また、<理性批判>というのもおそらくは当たらない。理性という言葉を使うなら、オークショットは、理性一辺倒の「理性主義」に懐疑の目を向けたのであって、理性自体を批判したのではない。『純粋理性批判』を著したカントを依拠して立論しているのでもない。オークショットは、理性に偏重した合理主義を論(あげつら)い、その問題性を浮かび上がらせたと言うべきなのではないか。

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