オークショット「政治における合理主義」訳者解説(5)自己陶酔的解説
では一体この場合の理性批判とは何だろうか。私はこれを、ループを作ることだ、と考えている。理性、言語、意識、は一旦求心的な回転を始めると、正のフィードバックが働き、他の要素を抑圧して自己増殖作用を加速的にとめどなく進めてゆく傾向がある。その場合に発生する事態を一般的な形で自覚し、自己破壊を防止して正常な機能の範囲にその働きを制限するために、言語そのものの中に、この増殖を中和する負のフィードバック回路、または進む方向を逆に戻すループを設けておくこと、が必要である。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 397)
などと「自分の世界」を開陳されても、どうしてよいのか分からない。
理性は自足的なものではないのだ、ということを認識し、その外、または背後にある理性の機能にとって不可欠なものへと目を向けさせることで、理性の病理を理性の自己理解によって治療し、(主に自ら招いた)難局の打開を異なった方向に求めることを可能にしてくれるような、回路。
私の観点からオークショットが興味深く見えるのは、彼の著作が、このような機能をある文脈の下で見事に果たしうる、と思われるからである。もちろんこのループの構成は、不眠症が、「考えなければ眠れるんだ」というまじない、つまり、「言葉にしなければよいのだ」という言葉をとなえるだけで解消するわけでないのと同じく、見掛けほど容易ではないのだが。(同)
などと読者を置き去りにした「独り言」は、もはや自己陶酔としか思われない。
政治とは本質的に、文明社会を営む技芸、人々のマナーの中に生き、伝えられている共同体の絆を、環境の変化に応じながら維持し、改善してゆくこと、なのである。(同、p. 398)
政治を保守政治に限定すれば、このように説明することも可能であろう。
それは、何らかの理想を共同事業として追求するための社会のマネージメントではないし、言語的に根拠づけられ正当化された特定の信条を自己目的として現実に押し付けるためのものでもない。(同)
というのがオークショットの立場だということである。誰かが勝手に妄想した<理想>に向け、変革を企むことは不自然極まりなく、ただ社会の秩序を掻き乱すだけである。それを力付くで抑え込むのが社会主義をはじめとする設計主義の姿である。
この点は、「バベルの塔」においてもまた、理想追求型の道徳を共同事業として社会に課すことの批判として、より中心的に論じられている。つまりその種の道徳の徹底した追求は、個人が行う場合には英雄的所作でもあるが、社会が集団的に行うなら、単なる愚行となるような、営みなのである。(同)
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