オークショット「政治における合理主義」訳者解説(6)張り子の虎

 オークショットが批判するのは、(原理上不可能な)誤りえない確実性を求めるあまり、全ての既存の(蓋然(がいぜん)的な)知を捨てて理性を白紙にし、確実な前提と推論を経(へ)れば確実な結論を得ることができるし、そうすべきだ、とするような認識論上の立場である。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 398)

 こんな七面倒臭い説明をせずとも、オークショットが批判するのは、要は、「合理主義」である。

このような「合理主義」の哲学が政治の世界に流れ込んだ結果、人々の行動の間にあった一貫性と事実上の整合性(これはオークショットにとっては「実践知」と同じであるが)が、様々な自覚的「原理」や「目的」の賦課(ふか)とその変転によって寸断され、政治は長期的連続性を失って、次々に現れる(自ら招いた)問題の解決と、危機の連続へと解体される。(同、pp. 398-399

 頭の中で「合理主義」が成立しても、これを安易に実践に持ち込むことは出来ない。頭の中で考えられることには限界がある。オークショット流に言えば、「知」には、定式化出来る「技術知」と、出来ない「実践知」があり、「技術知」だけ使って、頭の中でたとえ完璧な論理が打ち立てられたとしても、これをそのまま実践に移すことは出来ない。現実は、言葉に出来ないこと、詰まり、論理的に考えられないことが複雑に絡み合っているからである。

 「合理主義」が観念の世界だけでなく現実世界でも通用すると考えるのは、「合理主義」ではなく「短絡主義」と言うべきではないか。

 これは全て、理性の自己認識の誤りが招いた結果なのである。反省的理性は人間を人間たらしめている能力であるが、これは決して自立した能力ではなく、個人と社会を機能させている生きたシステムに付加されその中で働くべき(働いている)「批判的」な力なのであり、そのような補助的位置で驚くべき作用を営むものである。(同、p. 399

 先ず、理性を<反省的理性>に限定しているのが気に懸かる。さらに、人間の内側にある<反省的理性>が、人間の外側にある<個人と社会を機能させている生きたシステム>に付加されるというのも良く分からないし、<反省的理性>が<そのような補助的位置で驚くべき作用を営む>というのも、具体的に何を意味しているのか見当が付かない。

ところが「合理主義」は、このごく当然の事実を忘れて、ややもすると理性が自立的に行動を制御し、社会を運営しているという事実に反する幻想を抱いたり、それが可能であってそうすべきだという価値観を明示的、非明示的な前提として議論や説得を進めるのである。(同)

 <理性が自立的に行動を制御し、社会を運営している>などと誰が言っているのか。現実を踏まえて理性が行動を制御しなければならないのに、設計主義が、最終目標としての理想を掲げ、これが行動を差配していることが問題だと言うべきではないか。

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