オークショット「政治における合理主義」訳者解説(7)嶋津氏の解釈違い
否定的なモデルとしての「合理主義」を描いて見せているここまでの議論は、保守、革新等の政治的立場とは独立させて理解されるべきであろう。確かに楽観的な理性至上主義は、既存のメカニズムへの無理解を伴う安易な社会変革プランへと導くだろうが、「革新」的な政治がそのようなヴァージョンに尽きるわけでないのは当然である。革新が現実的であり保守が幻想に依存している、というような時代状況は、常に発生するし、教条的な政治は革新にも保守にも成立する。逆に、特に社会の基礎が崩壊しつつあると感じられるような場合には、ある形で理解された伝統に忠実であるからこそ大規模な現状変革の必要を痛感する、という事態も大いに可能である。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 399)
嶋津氏は、「合理主義」のどこに問題があるのかがよく分かっていないのだろう。オークショットが「合理主義」を攻撃してみせたのは、彼が保守だからではない。自分と立場が異なるからという理由で相手を攻撃するというのでは、ただ難癖を付けているに過ぎない。オークショットが「合理主義」を攻撃したのは、「合理主義」に問題があると見て取ったからである。「合理主義」を攻撃するオークショットが周りの目に保守的に映ったのはその結果に過ぎない。
問題なのは、個々に切り離された特定の政策云々というよりむしろ、様々な議論と実践を営む場合の、人々の姿勢、構えであろう。どのような種類の論じ方は、適切で尊重されるべきものであるのか、どれは慎むべき粗野なやり方であるのか、理性的、批判的議論一般は、政治の実践全体の中でいかなる位置をしめ、どのようなものとして扱われることで、またいかなるルートを通して、人々の現実の行動の上に影響を及ぼすのか。オークショットが問題にしているのはむしろこのような、議論の表面だけに視野を限定しない時にはじめて見えてくるようなレベルにおける「合理主義」であろう。(同、p. 399)
オークショットは、思想としての「合理主義」を批判しているのであって、政治的実践としての「合理主義」を批判しているのではない。<議論の表面だけに視野を限定しない時にはじめて見えてくるようなレベルにおける「合理主義」>といった煙(けむ)に巻くような話ではない。
革新的な考え方に共感しながら自らの議論の現状に不満を覚えているような人々こそむしろ、オークショットから得るべきものが多いのではなかろうか(丸山真男が病床でトクヴィルを読みふけった場合があるいはそうであったように)(同、pp. 399-400)
オークショットは、『保守的であるということ』なる論考にも見られたように、「絵に描いた餅」よりも、今あるものを大事にすることの必要と意義を説いた。その意味で、革新思想の足りないところを埋めてくれるというよりも、非現実的な理想から現実世界に引き戻してくれるのが、オークショットの議論と言う方が適切ではないか。
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