オークショット「政治における合理主義」訳者解説(8)保守は主義ではない

 これはオークショットの「保守主義」についても言えるかもしれない。「保守的であるということ」で論じられているような、一般化された形でそれを捉えるかぎりにおいては、我々は全て多かれ少なかれ、保守主義者なのである。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 400)

 「保守的であるということ」は、必ずしも「保守主義」を意味しない。福田恆存(ふくだ・つねあり)氏も次のように言っている。

《私の生き方ないし考へ方は保守的であるが、自分を保守主義とは考へない。革新派が改革主義を揭げるやうには、保守派は保守主義を奉(ほう)じるべきではないと思ふからだ。私の言ひたいことはそれに盡(つ)きる》(「私の保守主義觀」:『福田恆存全集』(文藝春秋)第5巻、p. 437

 福田氏の論理は、次の如くである。

《保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに氣づく。「敵」に攻擊されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがつて、 保守主義はイデオロギーとして最初から遲れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに運命づけられてゐる。それは本來、消極的、反動的であるべきものであつて、 積極的にその先廻りをすべきではない》(同)

 改革に対する「反動」でしかない「消極的」な思想に、積極的な<主義>という言葉を当てることは出来ないということである。

《保守的な態度といふものはあつても、 保守主義などといふものはありえないことを言ひたいのだ。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、 またそんなことはできないはずである》(同、p. 439

全ての習慣と慣れを捨てて、瞬間瞬間の行動を自覚的な目的や原理と関連させた「合理的」選択として常に新たに始める、などということが、我々にできるわけでもないし、たとえできてもそれは悪夢あるいはある種の精神病患者の行動(それが行為と呼べるかどうかはさておき)のようなものになるだろう。(嶋津、同)

 「合理主義」は、非合理なものを排除し、物事を合理的に考えようとするものである。が、当たり前であるが、現実の世界は非合理なもので埋め尽くされている。だから、「合理的な考え方」は、現実とは切り離された頭の中の世界では成立しても、現実世界では通用するはずもない。詰まり、「合理主義」が創り出した「理想」を現実の世界にそのまま持ち込むことなど出来やしないということである。

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