オークショット「政治における合理主義」訳者解説(9)矮小化された議論

「合理主義」的、保守的という区別は、傾向としてなら、政治についてだけでなく、もっと一般的な生活態度(とその政治への反映)に通用できるもののように思われる。(嶋津格「訳者解説」:オークショット「政治における合理主義」、p. 400

 「合理主義」に対置されるのは、保守主義ではなく経験主義である。詰まり、合理主義と保守を区別するのはそもそも無理である。

 たとえば、レストランでメニューを選ぶとき、多くの選択肢の中から何を注文するか、という時に人がとる戦略として、これを捉えることもできるだろう。その場合「合理主義」者とは、すべてのメニューについて与えられる味覚上、栄養上の満足と価格とを比較した上で、自分の習慣をあえて無視して最良の選択肢を選ぼうとするような人のことだろうか(もっともこのカリカチュアをさらに進めるなら、彼はまず、なぜそのレストランを選んだか――別の店にすべきではなかったか――について、「合理主義」的な正当化をせねばならないはずだし、さらにはその前に、一体レストランで食事をすること自体が自分の目的や原理に合致するのかどうかも考慮せねばならないのだが)。(同)

 この例は、果たして<合理的>なのだろうか。例えば、800円のエビフライと850円のハンバーグを選択する際、800円のエビフライの方が安いから、これを選ぶのが<合理的>なのか。百歩譲って、全く同じ材料から作った2つのエビフライであれば、安い方を選ぶのが<合理的>と言えるのかもしれないが、種類の異なるものを、値段だけで選ぶことがどうして<合理的>なのか。勿論、何を食べるのかを選ぶ際、問題となるのは、値段だけではない。味もあれば、香りもある。見た目もある。量的お得感もあるだろうし、カロリーの問題もあるだろう。これらを総合して選ぶわけだが、一体どのようにすれば<合理的>選択と言えるのか。詰まり。<合理的>かどうかなど考え出せば、選択することが出来なくなってしまうということである。

そして保守主義者は、自分の良く知っている食べ慣れたメニューを選ぶことで満足する人だろうか。しかしこの場合でも、「合理主義」者の味覚自体はやはり、多少とも保守的たらざるをえない。つまりそれは、彼の育った偶然的な環境を反映してしまうのであり、これと独立に彼の満足の基準は成立しないのである。一方保守主義者の得る満足の中には、確実に美味いと知っているものを食べるということの他に、食べ慣れたものを食べているのだという満足が含まれているだろう。(もっとも、何か新しいものを試したい、つまり、その内容と別に未経験のものを経験すること自体を楽しむという「好奇心」もまた、生物としての人間の際だった特徴であり、この点についてオークショットは何も語らないが。)(同、pp. 400-401

 食べ物の選択が保守的かどうかを問うこと自体が馬鹿げている。保守とは、もっと社会的なものであって、個人の趣味嗜好の問題ではない。前に食べたハンバーグが美味しかったから、今度もハンバーグを食べることにしようなどというのを保守的と称するとすれば、話を矮小(わいしょう)化し過ぎであろう。

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